さらさら さらさら
悠久の時を流れる大地の源。
全ての生物が水を求め引き寄せられ、時には荒れ狂い人さえも呑み込むもの。
その広い川幅を支配するように人が作り上げた、左右の伸びる橋。
誰もが川を当たり前のように通り過ぎ生活に明け暮れ、
色とりどりの花を抱えて水流を見下ろす女には気付かない。
遠くで鳴く蝉の声だけが、うるさいくらいにさざめく。
(また……この季節になってしまいました……)
じっとりと全身からにじむ汗とは反対に、綾葉は涼しい顔で川の流れを見つめる。
(いつか……いつかは、そちらに……参ります………それまでは……)
綾葉は三色の花束を投げ入れた。
拘束を失った花達は命のように舞い、はらはらと水に吸い込まれる。
(お市様は、今……幸せ……ですか?)
青と黄の花びらは、守れなかった最愛の主。
加えて今年は桃色の花を添えた。それは、救えなかった最愛の姫。
本当は桜がぴったりだと思ったけど、今は季節じゃないから許してくださいと、
綾葉は心の中で苦笑しながら手を合わせた。
願わくば花びらが自由に混じり合い、この水の先の想い人に届くように。
永久の世界に穏やかな幸せが訪れているようにと。
18・ちかつおうみ
それは、ある夏の日の事。
「お前がいてもいなくても然したる問題はない」
休みをほとんどとらない綾葉だったが、一年の内この季節にだけは毎年休みをもらっていた。
その許可は事前にとってあったが、主の仕事に支障は出ないかという事が心配で伺いをたてに来た。
しかし、主は綾葉の方をろくに見ないうちに追い払おうとする。
「すみません、早めに帰ってきます」
「余計なお世話だ。いいからさっさと行け」
いつにも増して無遠慮な言葉だなぁと苦笑しつつも、
主が無理してないかが心配でこっそりと顔を覗き込んでみる。
だけど相手は無表情が常のわかりにくい主、容易には読めない。
「……はい、それでは行って参ります」
諦めようと、綾葉は頭を下げて退出しようとした。
「綾葉」
「はい?」
ふいに呼ばれてはじかれるように振り返った。
主の筆は止まっていて、でも顔はあさっての方向を向いていた。
それは言いにくい事を言おうとしているときの癖だ。
「………お前が、いつもこの時期にだけ休暇をとるのは……何か、あるのか?」
「え……?」
毎年休みをとって、でもその理由を聞かれたのは今年が初めてだった。
「別に言いたくないなら、いい」
言いたくない訳じゃない、少し驚いただけだ。
主が私に興味を持っている、なんだかそれが嬉しかったから。
「…………お墓参りです。夏は、私の最初の主が散った季節ですから……」
同時に浅井家の居城、小谷城が陥落した季節。
「………そうか」
その下向き加減の微笑をもっと見たい気がしたが、同時にもう見たくないとも思った。
矛盾した己の感情に三成が首をひねっていたのは、今朝の事。
それから数刻が経った。
いつもの雑務に追われる1日のはずだった。
三成はいつもと変わらない執務をしている、はずだった。
「綾葉、これを………」
振り返っても今日は返事をする人間がいないのだと、何度認識したことか。
朝からどこか調子が狂ってばかりで思うように仕事が進まない。
「……馬鹿か俺は……」
何度目かわからない溜息をついた。
綾葉はいつも、まるで気配を消すようにして背後で執務の補佐をしている。
時折聞こえる書類の音でやっと人がいると気付くぐらいのものだから、
気配がなくても後ろに控えている事が当たり前だったのだから仕方ないと、
三成は無理矢理自分に言い聞かせた。
しかし、それにしても書類が片付かない。
ものによっては別部署に持っていき早急に返事がほしいものがあるが、
それを買って出てくれる人物はそこにはおらず、わざわざ誰かを呼び出すもの少し躊躇われる。
苛々が溜まってきた頭を落ち着かせようと湯呑みに手を伸ばした。
だが、いつもそこにあるはずのものがない。
「くそ……っ」
引っ込みがつかなくなった手で三成は乱暴に頭を掻いた。
気に入らない、何かがおかしくなっている自分が。
――――「久しぶりだな、こうやって散歩に来るのは」
「………………っ」
明るく努める主が痛々しくて、言葉を発する事すらできない。
対称的に清々しく広がるのは海と見間違うほど大きな湖。
そのほとりで主と私は全てを忘れるように佇んでいた。
「また二人になってしまったなぁ、綾葉」
主の最愛の奥方と三人の姫様達は織田家に帰って行った。
彼女までも運命を共にする事はないという、主の最後の優しさだった。
私も逃げるように再三説得されたけど、頑として首を縦には振らなかった。
「私は……私は、何があろうとも、お傍を離れません……」
「…………そうだな。お前はずっと私に仕えてくれた。綾葉がいて、どれだけ私が救われた事か」
既に泣きそうな私の頭をそっと撫でた主の目がとても悲しそうな色をしていたと、子供の私でもわかっていた。
きっと私がまだここにいる事を主は気にしている。
だけど主から離れる事は、私にとっては死も同じ事だった。
小谷城のほとりの湖、近淡海(ちかつおうみ)はまるで海のように寄せては返す。
傍まで波が迫り、近くの砂を奪っていく水にはしゃいだ事もあった。
団子を広げて花見をした事もあった。
馬乗りの練習で、ここで主と肩を並べて休憩した事もあった。
皆で散歩をしたあの日は、もうこない。
もう何も、残ってはいない。
「広いなぁ綾葉、まるでこの先には何もないようだ」
あまりにも大きな湖だから、対岸など見える訳がない。
空と水面の境界線がはっきりと線引きされ、視界は全て青一色に染まる。
「……はい……好きですけど……でも……」
「でも?」
「…………少し、怖いです」
その景色は綺麗だと思う反面、不安な気持ちに駆られる。
淡海の先にあるものは無だけであるかのような。
そんな事を言ってしまい怒られるかと思ったけど、主はふっと笑った。
「見えないと思うから不安になる、だが本当はいつだってこの先には大地がある」
主はいつも、前ばかり見ていた。
周りは既に敵に囲まれて、逃げ道などない今の状況でさえも。
「なぁ綾葉………私は、この淡海のようになりたい」
あの人は、いつだって笑っていた。
影では本当は、悔しそうな顔も悲しそうな顔もしているって知っていた。
だけどそれを決して私には見せないようにしている事も、知っていた。
「私の意思は、どれだけの年月が経とうとも決して変わらぬ。
静かにそこにあり続け、真の選択をただ貫くのみ」
だから私は気付かない振りをして、ただ声を出さずに泣くばかり。
「綾葉が望むなら、私はいつだってお前の傍で生き続けている。
たとえこの身が滅びてしまったとしても」
願わくば、最後には笑って逝けるように。
「義の選択を、某は決める」――――
「…………また来年、来ます」
墓参りと言っても、お墓に行く訳じゃない。
小谷城があった所はここから遠かったし、何より本当の墓に行く勇気なんかなかった。
三成様に士官した頃、秀吉様はまだ長浜城を拠点としていた。
長浜城からは小谷城よりも湖が近くて、その広大な墓標に花を流した。
それから次第に湖からは離れて、今はもう青一色の景色は見えない。
それでも毎年何かをしたいと川に花を流すようになった。
あの人がなりたいと言っていた湖の水が、この辺りの川にも流れているかもしれないから。
あの人とあの方が還るのは、埋葬された墓でも滅んだ城でもなく、きっとあの近淡海。
三色の花びらのように、静かに佇んでいるだろう。
綾葉は最後に軽く手を合わせ、馬に跨った。
慣れ親しんだ城下に着いた頃には日は既に南天から傾いていた。
久しぶりの城下だから、一軒一軒のんびり店巡りでもしようかと考えていたけど、
現在の主に早く帰ると宣言してしまったので、あまり長居をしないように綾葉は歩いた。
墓参りで少し気落ちしていた綾葉にとって、賑やかな雰囲気は心を落ち着かせてくれた。
「あら、綾葉ちゃんじゃないかい」
ふいに名前を呼ばれて振り返ると、馴染みの甘味処の女将さんが顔を出した。
「お久しぶりです」
「綾葉ちゃんも………あ、もう『ちゃん』って呼べる人でもなかったね」
「いいですよ、今まで通りで」
「……そうかい?」
確かに初めてここに来た時よりは出世した。
おそらく女将さんから見ても自分の身なりはずっとよくなっているんだろう。
「これから帰るのかい?」
「はい。今日はお暇をいただいてたんですけど、少し早めに帰ろうかと思って」
「あ、じゃあこれ持っていきなよ」
女将さんは串に刺さった団子を数本包んで綾葉に差し出した。
「うちはいつもご贔屓にさせてもらってるからね、ほんのお礼の気持ちだよ」
「え、いいんですか?」
遠慮がちな綾葉だったが、女将さんの威勢に押されて素直にそれを受け取った。
「(そうだ……お供え品にしようかな)」
綾葉はまだ温かいそれを見下ろして顔を綻ばせた。
「―――それで、女中に頼まれたから持っていったんだよ」
城内を歩いていると、厨房へ向かう廊下の辺りで話し声が聞こえた。
聞き慣れない声だったから自分の配下のものではないなと思ったが、綾葉は何となく耳をすました。
「そうしたら、『貴様は女中か?時間の無駄だ、帰れ』って開口一番に言われたよ」
「相変わらず気難しい人だなぁ三成様は」
「ああ、茶ぐらい受け取ってくれたっていいのになぁ……」
聞いた事のあるような台詞と主の名が聞こえて、自然と足がそちらへ向かった。
綾葉が近づいているのも知らず、男達は盆の茶を眺めながらさらに続ける。
「どうして綾葉殿は毎回持って行けるんだろうな」
「そうだな……綾葉殿ぐらいじゃないか、臆せず三成様と接する事ができるのは」
「お茶なら私が持っていきます」
「ぅわ!綾葉殿!?」
「す、すみません……っ!」
噂の張本人が突然現れて、男達は驚愕で軽く後ずさりをした。
混乱で思わず口にしたのは謝罪の言葉だったが、綾葉は特に不快にも思わず、茶を見て微笑んだ。
「ありがとうございます、わざわざお茶を持って行ってくださったんですね」
「あ……あ、は、はい。でも、断られてしまいましたけど……」
「そうですか、では私が持っていきます。お気遣いありがとうございますと、女中の方にもお伝え下さい」
「……は、はい……」
流れるような動作でお盆を持って行ったしまった綾葉の背を、男達は尊敬の眼差しで見つめていた。
「やはり凄いなぁ、綾葉殿は」
「……ああ、真似できない……」
そんな事を噂されている事すら気にも留めず、綾葉は三成の部屋へ真っ直ぐ歩いた。
しかし平然と持っていたかのように見えた足取りは、
本当はどこか軽快なものだったという事を、男達は知る由もない。
「綾葉です、失礼します」
「………………………ああ」
随分間があったなと、綾葉は襖障子を開けながら思った。
そして目の前に飛び込んできたのは、いつもとは違って整頓されていない部屋。
「ただいま戻りました。先程の方からお茶をお預かりしましたので、熱いうちにどうぞ」
「いらん」
「……………どうしてですか?」
一瞬だけ茶を見てフイッと顔を背けた三成に、綾葉は思わずその理由を尋ねた。
一言で拒絶を表した主は不機嫌な様子だったけど、本当に近寄れないようなものではなかったから。
主に対して失礼かもしれないけど………何というか、
そのまま「はいわかりました」と言って放っておけない気がしたからだった。
「…………いらん物をいらんと言って何が悪い」
「…………そうですか、ですが一応置いておきますね。
私はそちらの書類を整理しますので、三成様はお気になさらずお続け下さい」
視線を一度も向けなかった主は、容易に気持ちを知ることのできない人であり、
配下である自分が問い詰めるのもおかしいと考え、諦めて背後に回った。
唯一気になるのは、渡しそびれてしまった掌の包み。
主は一瞬だけこちらを見ただけでそれからは一度も目を合わせようとはせず、
そして話を切りだす機会にも恵まれなかったから、これもまぁ仕方ないと納得し、
邪魔にならないように傍に置いた。
随分散らかっているな、と珍しいものでも見るように片付ける。
別部署へ渡すものは別に置き、後で持って行こうなどと考えていると。
「…………茶が遅い。今持って来られてもいらぬ」
拗ねたように呟かれたのは主の声。
要するに、いつもの時間に茶がなかったから不機嫌だったという事で。
そしていつも、時期を見計らって茶を持ってきていたのは綾葉で。
「……申し訳ありませんでした、次回からは気をつけます。
もし私が不在の時にお茶を所望されたのなら、
どなたかがすぐお持ちするはずですので、お申し付け下されば――」
恐る恐る遠回しに進言してみるが、それはどうやら三成の苛立ちを増長させただけだった。
「茶ごときで執務を中断させろと?」
「いえ、そういう訳では……ほんの僅かな時間だけですし……」
「俺が行かずとも気を利かせて持ってくるのが女中の役目だろう」
「それはそうですが……私が女中に言付けするのを怠ってしまいましたので……」
「そうだ、だからお前が悪い」
「…………はい、申し訳ありません」
「大体、お前が帰ってくるのが遅い。そうすれば面倒な事にもならなかっただろう」
「……………」
珍しく三成にまくし立てられ、綾葉は返す言葉もなくなった。
……毎年よりかはずっと早く帰って来ているんですが。
言っている事は確かに正論だけど、随分我が儘な事を仰るなと思ってしまった。
(主に対してそんな事を思ってはいけないけど)
でも次第に湧き上がるものは嬉しさで。
それはつまり、私がいなかったから三成様は不機嫌だったのかと。(飛躍しすぎだろうか)
茶が欲しければ自分で女中を呼べばいいだけなのに、それができない。
本当に、変な所で不器用な人だ。
……これでは片時もお傍を離れられないじゃないですか………
「………何だその包みは」
「え?あ、これは……」
しばらく仏頂面で筆を走らせていた三成が、ゆっくりと睨むようにこちらを向いた。
それでも、ようやく主が振り返ってくれた事に気をよくした綾葉は、思い切って雰囲気を変えようと意気込んだ。
「城下でおすそわけにあずかったものです。
お供えにするより、三成様と一緒に食べた方が美味しいかなと思いまして……」
それは、精一杯のご機嫌取りだった。
「そのご様子ではずっとお仕事をされていたかと存じますので、
よければ、お茶とご一緒に……お手を休めて、少し休憩いたしませんか……?」
「……………………」
しばらく互いに睨み合いをしていたが、(私は睨んでいる訳じゃないけど)
諦めたのか三成様は大きく深呼吸をし、筆を置いた代わりに湯呑みを手に取った。
「………その書類、今日中に処理しておけ」
「…………はい、善処します」
何とも不思議な雰囲気の休憩になってしまった、昼下がり。
片付いていない部屋の中で主と食べた団子の味はどうしてかいつもと違っていた。
「美味しいですね、三成様」
「…………筆を見ながら食っても美味くはない」
いつまで経っても素直にならない主の背に、綾葉はまたこっそりと微笑んだ。
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本当はお市様が帰ったのは織田軍に包囲された後なんですけど、会話が欲しくてちょっと捏造。
琵琶湖の昔の名称は「近淡海」(ちかつおうみ)、ここから滋賀県が近江の国と呼ばれたそうですよ。
琵琶湖は水平線が見えるそうですね。
……一つのエピソード入れたい為に、色々と調べすぎです自分。
この辺の情報、間違っていたら是非ご一報下さい、滋賀県の方(笑)
ワガママで子供な三成様は個人的に好き。
実は意外とターニングポイント的な話だったりします。
甘味処の女将さん、関西弁にするの忘れました(まぁいいか)
※2008.1.19追記(全話的に)
長浜城描写が欠落してたので補足。