20章





鳳綺が女官吏を退けてから、瞬く間に日々が過ぎていった。
ようやく官吏として普通にいられるようになったと思う。

冷たい態度をとっていた人や遠巻きに見ていた人とも少しずつ打ち解けられて、
今や鳳綺を認めてくれたのか皆良くしてくれている。
あの女官吏は何か言いたげな目で此方を見てくる時はあったが、それでももう近付いてはこなくなった。
苫珠を真似た啖呵だったが、やはり誰でも吃驚するものなんだと鳳綺は小さく笑った事を思い出す。

「こんな所があるなんて知らなかったな……」

目の前に広がる光景に、鳳綺はふっと安堵の息を漏らした。

関弓山の中で、鳳綺の身分で登れるぎりぎりの位置、治朝の奥にある路門の近くに、外が見渡せる石造りの露台を見つけた。
久しぶりにできた自由な時間をどうしようかと考え、鳳綺は治朝の把握も兼ねて散歩をしようと此処まで来たのだが、
人も少なくてくつろげる場所がある事を知って、静かに腰を降ろしている。

今までもそうだったが、ふらふらと探索に乗り出してしまうのは元来の性格なのだろう。
それをしようという気になった事が、鳳綺に少しだけ心の余裕ができたという証だ。

頭上にはすぐ雲海があり、路門を超えたら玄英宮があるはずだが、此処からはゆらゆら揺れている雲海の波しか見えない。
周囲の山肌はごつごつとしていて、大きな岩がいくつも張り出している。
だけど、そこから鮮やかな緑の木々が生え、緩やかに流れる水は滝を作っていて、美しい自然が溢れている。
視線を前に戻せば、無限に広がっているかのように見える青い空。
大地はかなり遠い場所にあるのかはっきりと見えないが、
頬をくすぐる風は街で生活している人達と繋がっているような気がする。

(苫珠や雄飛も、いるんだよね?)

見えはしないけど、きっとそこにいるだろう。
苫珠はいつものように溌剌と食庁を切り盛りしているだろうし、雄飛は官吏になる為今も大学で頑張っているだろう。

(だから、大丈夫)

自分は独りではないと、鳳綺は頬を緩ませる。
目を閉じれば聞こえる波の音。
風に乗って潮の匂いもして、まるで自然に包み込まれているような感覚だった。
無心になって、心が洗われていくようだ。

「……ふぅ……」

空気を吸い込んで、小さく息を吐く。

充実した日々が送れていると我ながらに思う。
今の生活に不満なんてもうないはずなのに、ふとした時に苦しさを感じてしまうのだ。

あの時の、怒りに満ちた漆黒の瞳、去り際の悲しそうな顔がずっと脳裏に焼き付いている。
傷付けてしまった事をずっと後悔して、どれだけ笑顔を装っていても棘のように残って、時折胸がちくりと痛くなる。

言葉ではなく態度で謝ろうと決めた。
鳳綺が持ち直せば、いつかは尚隆の耳にも届くだろうと。

(ちゃんと目を見て謝りたいんだけど……)

本当は尚隆に会うのが怖い。
謝ったとしても、あの深い闇のような瞳が、
鳳綺を前に一切の感情を映さなくなっていたらと思うと、怖くてできない。

(……それでも、謝らなきゃいけないよね)

鳳綺は沈みそうだった気持ちを振り払う。

ずっと鳳綺を影ながら支えてくれたのは尚隆だ。
泣いて、弱くなって、だけど必死に前を向いて大学を出て、官吏になれた。
もう失望されていたとしても、今までの感謝の気持ちはなくなってはいない。

だから次に会った時にはちゃんと伝えようと鳳綺決めた。
それで、王ではないただの尚隆と話す事が最後になってしまったとしても。

「……戻ろう」

此処で、いつまでも後悔していても始まらない。
休憩時間であったとしても、鳳綺にはやるべき事が山ほどある。
国の為に、尚隆の為に、自分の為に少しでも前に進もうと、座り込んでいた石段から立ち上がり振り返って、固まった。

「―――良い所だろう?」

王の装束をきちんと身に纏った尚隆が、小さく笑みを浮かべて立っていた。
今の今まで彼の事を考えていたせいで、鳳綺はまともな反応ができず瞠目するばかり。

周りの一切の音がなくなってしまったようだった。
鳳綺の視界に映るのは、今も昔もずっと尚隆だけで。
苦しいくらいに胸が詰まって、ぎゅっと締め付けられる。

怖れていた冷たい色ではなく、変わらない昔のままの穏やかな表情が鳳綺を向いていて、 それだけで泣いてしまいそうになる。

「此処は、俺の気に入りの場所の一つだ」
「主上―――」
「何も話すな。お前が話すとまたややこしくなる」
「…………っ」

開きかけた口を封じられて、鳳綺はその場で押し黙る。
尚隆は静かに石段を降りて、遥か彼方の関弓の街並みを見下ろす。

「そのうちお前を連れてくるつもりでいたが、もう見つけてしまったみたいだな」

風が尚隆の長い髪を揺らしている様子を呆然と見つめた。
喋るなと言われて、むしろ助かったと鳳綺は思う。
ついさっき尚隆に謝ろうと決めた所なのに、急すぎてどう切り出せばいいのか言葉が出てこない。

「……この前の事は、すまなかった。感情に任せてお前を傷付けてしまった」

振り返った尚隆の顔はあの時と同じ、悲しみの混じった後悔の色。

「え……そんな―――!」
「『話すな』と言っただろう?」
「……っ」

尚隆が謝る事ではない、謝らなければならないのは鳳綺の方だ。
それが言いたかったのに、なおも遮られて鳳綺は何も言えなくなってしまった。
尚隆は眉尻を下げて、小さく苦笑する。

「俺は何も考えずにお前を遂人にした訳ではない。お前ならできると……だから敢えてそうした」

(わかってる……気付けなかった私が悪いの)

言いたい言葉が紡げず、鳳綺はこくこくと頷くばかり。

「どうなるかと思っていたが、心配はいらなかったようだな」
「…………」
「やはり、俺の選んだ鳳綺だった。あの状況からよく抜け出せた」

鳳綺の働きは尚隆に届いたのだ。
それは嬉しいのだけれど、ずっと尚隆が寂しい目をしているのが気になる。
見ていると、こちらまで不安に駆られてしまうのだ。

「だが……心配な時もある」
「…………?」

鳳綺が首を傾げると、尚隆は外の景色をぼんやりと眺めた。
言葉が途切れた少し間に、眼下にある白い雲はゆったりと流れている。

「確かに俺は王だ。どんな奴でも皆俺の事を『主上』、『延王』と呼ぶ。六太は別だが……」
「…………」
「わかっている。俺が王だという事は痛い程な」

尚隆が何を考えているのかわからない。
だけどどこか寂しそうな背中を見つめていると、胸が痛くなる。

「だが鳳綺……せめて、二人だけの時でいい」

尚隆の悲しい瞳が鳳綺を振り返る。

「……前のように呼んではくれないか?」
「―――っ」

(尚隆……!)

まだ、そう思ってくれているなんて。
嬉しくて、愛しさが溢れて体が震えた。

滲んでいく視界の中でも尚隆から目が離せない。

嫌われていなかった。
それだけでなく、鳳綺が悪いはずなのに尚隆が謝罪の言葉を口にして。
こんな弱りきった声を出すなんて思ってもみなかった。

いつも余裕で、少し意地悪で、何を考えているかわからなくて。
それなのに漆黒の瞳は囚われてしまいそうな深さを抱えているのに。

遠い、遠い存在だと思っていた彼が、とても近くに感じる。
今すぐ駆け寄って、抱きしめてしまいたいと強く思った。

(尚隆!)

心が叫ぶ。
ただ彼の名を想うだけで、激しい恋慕の渦が鳳綺を襲う。
言葉の代わりに、尚隆を一心に見つめた。
この感情全てが伝わればいいと願いながら。

ただひたすらに白銀の瞳を向けたまま時間が経つと、急に尚隆が吹き出した。

「もういい、鳳綺。もう、喋っていいぞ」
「え……?」

堪え切れないという様子で笑っている尚隆に鳳綺は拍子抜けした。
もしかして、もう喋ってよかったのだろうか。

「だって……尚隆が『話すな』って言うから……」

許可が出ていないのだから口を開いてはいけないと思うのは仕方がないはずだ。
何だか恥ずかしくて言い訳を零すと、尚隆はようやく満足そうな笑みを浮かべる。

「やっと、戻ったな」
「え?あ……」

言われて普通に喋っていた事に気が付いた。
逸らしていた顔を上げれば尚隆が嬉しそうな顔をしているので、鳳綺もつられて笑んだ。
無意識に出た言葉が昔のようで、懐かしさが胸に広がる。

もっとこうやっていたいと素直に思った。
押し込めていた感情が、溢れてしまいそうになる。

「お前は、ずっとそうやって笑っていろ」
「……っ」

尚隆が控えめに手を伸ばし、そっと鳳綺の髪を撫でた。
思わず近付いた尚隆の優しい顔と、触れられた感触に背筋がぞわりと震える。
嬉しくて、目が離せない。

だけど尚隆はすぐに手を引っ込めると、鳳綺をすり抜けて歩き出す。

「っ……ま、待って……尚隆!」

咄嗟に呼び止めていた。
これで終わりだなんて嫌だと心が叫んでいる。

それに鳳綺はまだ何も言えていない。
ちゃんと謝れていない。

「どうした?」
「……わ、私……謝りたかったの!」

此方を向いた眼差しは穏やかで、鳳綺の体温が自然と熱くなる。

「どうしていきなり遂人になったんだろうって、嫌な事ばかり考えて……
尚隆がどういう気持ちでそこに決めてくれたのかとか、全然気付いてなくて……」
「…………」
「勝手に責任転嫁して、喚き散らして……私、最低だった」
「……もういいさ。今はよくやれているんだ」
「でも……!私、いつも逃げてばかりで……尚隆からも、逃げてた」

彼は王だからと距離を置いて、離れたのは鳳綺の方だ。
尚隆は許してくれる口ぶりだったが、全部言わなければ鳳綺の気が済まなかった。

「怖かったから!だから、ずっと逃げてた……」

近付きたくても近付けない存在だと、鳳綺の想いは叶わないのだと。
そんな現実を突き付けられたくなくて、自分から目を背けた。

(そう……ずっと、気付きたくなんてなかった)

本当はずっと尚隆だけを想い続けている事を。
尚隆からの求婚を拒んでおきながら、それでも想われていたいと考える自分が浅ましくて嫌だった。

どんなに離れても、他の男に目を向けた方がいいと言われても、
尚隆の姿を見て声を聞いてしまえば、あっという間に自分の心は尚隆に囚われる。

痛くて、泣きそうで、だけど傍にいて欲しい。
我が儘だってわかっているから、認めたくなんてなかった。
官吏になったのだって、尚隆の傍にいたいという気持ちが心のどこかにあったからだ。
そんな不純な動機、知られたくなんてなかった。

「っ……!」
鳳綺、もういい」

勝手に溢れてきた涙を乱暴に拭うと、尚隆がその手を掴んで止める。
だけど今その手に甘える訳にはいかないと、鳳綺は静かに距離をとる。

酷い顔になってしまっても構わない、もう全部吐き出すと決めた。

「っ、尚隆は……何も変わってない!初めて会った時から何も変わってない!変わったのは……私」
「…………」
「だから……ごめんなさい」

(傷付けて、ごめんなさい)

もう元には戻れなかったとしても、それだけは言っておきたかった。

本当は泣く資格だってないんだと、必死に抑えようとしても涙は止まってくれない。
溢れた感情を落ち着かせようと俯いていると、尚隆が近寄ろうとして立ち止まる気配を感じた。

「……鳳綺

優しい声で呼ばれる。
だけどすぐに返事ができないままでいると、尚隆が根気よくゆっくりと名前を呼ぶ。

鳳綺

元々尚隆の声には抗えない。
観念して顔を上げると、尚隆はどうしてかその場で両手を広げていた。

鳳綺……此方に来い」
「え…?」
「お前に優しくしてやりたいんだが、生憎俺は一度失敗しているんでな。悪かったと思ってるなら、自分から此方に来い」
「え……でも……」
「逃げないんだろ?」

少し前の会話からどうしてこういう状況になっているのだろう。
逃げていたとは言ったが、それは物理的な話ではなかったはずなのに。
鳳綺が戸惑う目をしても、尚隆は笑みを浮かべたままそこから動かない。

(でも、尚隆の言う通りだ)

全てから、尚隆から逃げたくないと思ったのは確かだ。
ならばこの状況から逃げる事も、もうしたくないとは思う。

それに、尚隆は感情に任せて鳳綺を傷付けてしまったと言った。
だから鳳綺に拒否する猶予を与えてくれているのかもしれない。

(だったら、進むしかない)

ここで尚隆の腕を拒絶したら、また彼は傷付いてしまうかもしれないから。

一歩、また一歩と、尚隆に近づく。
じっと見つめてくる尚隆の目に緊張して、途中からは早足になった。
そしてようやく目の前まで来ると、申し訳程度に尚隆の袖の端を小さく掴んだ。

「いい子だ」
「……っ!」

大きな手で、尚隆にふわりと抱きしめられる。
すぐ傍で聞こえる低い声、それから懐かしい匂いに包まれて眩暈がしそう。

(ああ、駄目だ……)

もう、この手を振り払えない。
鳳綺は諦めのような気持ちで目を閉じる。

思い出すのは、まだ幼い頃の朧げな記憶。
鳳綺という名前を尚隆に貰い、そして頭を撫でて夕日に消えていった背中。
あの時から、尚隆の背中を見ると言いようのない感情が込み上がる。

それから、初めて尚隆という人を知った日。
余裕たっぷりの笑みで、少々強引に琉綏をもらい受けた。
優しくされて、翻弄されて、気が付いたら尚隆しか見えていなかった。
深くて、時々怖いとさえ感じる漆黒の瞳に心を奪われた。

そうやって、鳳綺の大事な人生の分岐点には必ず尚隆がいた。
きっとこれからも、尚隆の存在は鳳綺の傍にあり続けるのだろう。

「時に鳳綺、少し聞きたいのだが」
「っ、え?」

ふいに顔を覗かれて、半ば夢心地でいた鳳綺は気の抜けた返事になってしまった。

「俺が行った時には持ち直していなかったお前が、どうしてそこまで変われた?
何かがあったのか、それとも……誰かに助けられたか?」

尚隆の言葉に、鳳綺は彼女の事を思い浮かべてくすりと笑った。

「……苫珠のおかげかな」
「苫珠?」
「関弓に、大切な友達がいるの。あの時の私、色々と限界で……それで相談に行ったら、苫珠に凄い勢いで怒られた」

その時の苫珠の剣幕が鮮明に思い出される。
六太が震え上がるほどだったというのは、今ではもう笑い話だ。

「苫珠が気付かせてくれたの。尚隆の、真意に」
「……そうか」

鳳綺の為にあるような役職だと言われて、目が覚めた。
何でも包み隠さず、真実を伝えてくれる彼女の存在は本当に有り難いと思っている。

「すぐ怒るから、いつも怖いけどね。
それから……嫌がらせをしてくる人に対する心構えというか、そういうものも教えてくれたり、ね」
「なるほど……興味深いな」

鳳綺が剣を持つ仕草をするので、それであの噂が出たのかと尚隆は納得した。
鳳綺を再起させたのが自分ではない事に妬いていた部分もあったが、どうやら女のようなので少し安心した。

「お前に味方がいて、よかったよ」

悔しい気持ちもあるが、そう思った事も嘘ではない。
尚隆が答えると、腕の中の鳳綺が小さく笑いながら顔を上げる。

「苫珠に言われて気付いたのは確かだけど……誰が私を取り戻させてくれたかと聞かれたら、尚隆もそうだよ」
「俺は何もしていないぞ」

そんな事ない、と鳳綺は首を振る。

「尚隆が私を遂人にした意味に気付いたから、頑張ろうと思えたんだよ。
私ならできると思ってくれていたんだってわかって、嬉しかった」

大事な言葉はあまり言ってくれない人だと思うけど、それが鳳綺の好きな尚隆だった。
そのせいで迷ってしまう時もあるけれど、彼の本当の思いに気付くと視野が一気に広がるのだ。
尚隆を想うといつも苦しくて、だけど愛おしくなる。

「だから、ありがとう……私を信用してくれて。尚隆が私に力をくれた」

もう大丈夫だと伝えたくて、自然と満面の笑みが溢れていた。
じっと鳳綺を見下ろしていた尚隆の双眸は、穏やかな夜の色をしていて。
綺麗だな、と見つめていたら瞳が静かに降りてきて、ふいに唇を塞がれた。

「っ……」
「すまない、衝動を我慢できなかった」

真面目な話をしていたはずなのに何故、と文句を言いたい気持ちだったのに、
至近距離にある尚隆は思ったより真剣な表情をしていて鳳綺は動揺する。

真っ赤になった顔を見られたくないのに、
尚隆に抱きしめられたままの状態では顔を俯かせる事くらいしかできない。

「もう一度言う、鳳綺。俺の妻になれ」
「…………!」

突然の言葉に、鳳綺は目を見開いた。
咄嗟に身を引こうとしたが、僅かに強められた腕に阻まれて動けない。

「で、でも、私……」
「拒否されても逃げられても構わない。この先も、お前が頷くまで何度でも言ってやる」
「そんな……っ」

前回の時は無理だとはっきり思えた。
だけど今は、揺れている自分がいる事に鳳綺は驚いている。

何か断る言い訳を言わなければと、必死で言葉を探した。

「わ、私……仕事がしたいの……っ!やっとまともに働けるようになってきたから、ちゃんと役目を果たしたいの」
「それは大いに果たしてくれ。だが、それと俺のものになる事は別問題だ」
「そ、そんな事言われても……っ」

(何か、何か理由を……!)

考えれば考える程、頭が混乱してくる。

「私じゃ、務まらないよ!」
「そういう事はもう言わないんじゃなかったのか?」
「っ……!」

全てから逃げたくないと誓った気持ちが、ここで徒になるとは。

「ほ、ほら、綺麗な人なんていっぱいいるし……こんな小娘が召し上げられたら余計に不満が出るんじゃない?」
「俺が決めた女だ。他の代わりはいないし、誰にも文句は言わせん」
「うう……」
「もう終わりか?」

いくらでも付き合ってやるぞ、とでも言いたげな顔で尚隆は笑っている。

「もっとないのか?他に男ができたとか好きな奴がいるとか、色々あるだろう」
「そんな人なんて――!あっ……」

尚隆以外にいる訳がないと言いかけて鳳綺は口を噤む。
それではただ告白しているようなものだと、ちらりと目の前の顔を盗み見るが、
尚隆は相変わらずどこか楽しそうにしている。

「俺を打ちのめす言葉を言えば、すぐに解放してやるぞ」
「……っ」

(そんな事、できる訳がない)

鳳綺は溜息をついた。

(もう逃げられないかもしれない)

逃げる気すらなくしている自分がいる事も、もうわかっていた。

気持ちを整理する為のしばらくの沈黙の後、鳳綺は疑問に思っていた事を尋ねてみる。

「……尚隆と一緒になるって事は、妾さんって事だよね?」

尚隆は『妻』と表現してくれているが、王は確か後から婚姻はできなかったはずだ。
だから市井の民でいうと野合という関係になり、王后ではく愛妾という立場になるのだろう。

「……名目上はな。だがお前以外に誰も娶る気はないぞ」

確認の為に聞いてみると、尚隆は少しだけ嫌そうな顔をした。
そんなつもりはなかったが、何人もの妾を囲う男のように思われたのが心外だったのかもしれない。
鳳綺はごめんと苦笑しながら、どこか安心している自分もいた。

「私……貴方の妾になる事の意味も責任も、よくわかった」

愛妾であったとしても、その立場になった瞬間に権力が生まれるだろう。
力を行使すれば下の者を強いる事だってできる。
いきなりそんな身分になってしまう事を怖いと、あの時は思った。

だけど、冷静な思考が自身に囁く。
自分はそうならなければいいだけだと。

それでも何年と、何百年と時が経てば自分は変容してしまうかもしれない。
いつか身分に溺れて、国を傾けさせるような女になってしまった時が怖い。

(尚隆も、同じこと思った事あるのかな?)

静かに見上げれば、闇色の瞳が細められる。
この底が見えない深さは、そういう気持ちを持っているからなのだろう、そんな気がする。

「……駄目な女になったら、ちゃんと止めてくれる?」
「それはお互い様だ。俺はずっと、俺を殺してくれる人間を探していた」
「……殺したくはないなぁ」

鳳綺は苦笑する。
だけど、それは二人にとってとても大事な約束なのだろう。

「二人で……ちゃんと、そうならないようにしないとね」
「ああ」

(きっと、それが本当の役目なんだろうね)

愛妾の立場になったのなら、やらなければならない事。
王を支え、王が惑う時はそれを修正して正しい道に戻して、
そして歴代の王のように狂い始めた時は、刺し違えても止める事。

今ならば、その役目がすんなりと受け入れられる。
むしろ、他の人には任せたくないとすら思っている。

抵抗の言葉を紡がなくなったのを良い事に、尚隆は鳳綺の黒髪を指先で弄り、頬を撫でる。
それが気持ち良くて鳳綺は目を伏せる。

「……ねえ、尚隆」
「何だ」
「責任とかも大事なんだけど……その前に、私はね……
一緒に何処かに出かけたり、街を歩いてはしゃいだり、木の下で寝転んだり……そういう普通の事が、もう一度したい」
「できる、お前が望むなら」

ちゃんと恋人であった事がない。
一足飛びで愛妾になってしまうかもしれないけれど、普通の恋人がやるような事を重ねていきたい。
恥ずかしながらもぽつりぽつりと話せば、尚隆は嗤う事なくはっきりと頷いてくれた。

(……なら……いっか)

鳳綺が微笑んだと同時に、また目尻から涙が流れた。

叶わないと思っていた夢が目の前にある。
もう一度、すぐ傍で手を広げて待っていてくれた。

尚隆の体温に包まれていると、力強い鼓動の音が聞こえる。
緊張して、安心して、そして最後の覚悟が決まった。

「……ずっと、好きだった」
「とっくに知っている。言うのが遅い」

鳳綺から尚隆の袖を握り締めると、降ってくる優しい声。
溜め込んでいた感情が、またしても溢れた。

「ずっと……っ、ずっと…好きだった……!」
「だった、か?」
「好きだよ、尚隆……っ!好きで好きで、どうにかなりそうだった……!」

押し込めて、封じ込めて、諦めようとしていた感情。
もう隠さなくていいんだと思ったら、嬉しくて止まらない。

しゃくり上げて、嗚咽のような泣き声になっても、尚隆はいつまでも髪を撫でていた。











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さあ、次でラスト。