小司徒の部屋までの道のりを、鳳綺は確かな足取りで歩いていた。

苫珠に目を覚まされた日から、鳳綺の目の色は変わった。
責任を背負わされて重いと嘆くのではなく、背負わせてくれたのだと思えるようになった。
そもそも尚隆を支えたいと、重荷を少しでもいいから肩代わりしたくて官吏になったのだ。
最初の気持ちを思い出したら、この重責が何だか嬉しく感じるようになってきた。

だから鳳綺は今、笑っている。
そうして忙しく治朝を動き回っている。

与えられた仕事の量は多い。
それをその日のうちまでに処理し、提出するだけで日が過ぎていく。
まだ新たな策を打ち出す事まではできないが、やりたいと思う考えは少しずつ溜まっている。

(少しずつ、前に進もう)

この国の為、尚隆の為、そして自分の為。
そう思えば、いつしか鳳綺が嘆く事はなくなった。


「あら、今日は随分と機嫌がおよろしいようで」

いつもの嫌味を言う女官吏とすれ違った。
鳳綺は崩れない笑顔で振り返る。

「はい。仕事が楽しくて仕方ありませんので」
「それはよかったですこと。何も知らない鳳綺様にはそのように忙しないのも大命のようで」
「ええ、これが私のやる事ですから」
「小娘がいつまでもつのかしらね」

変わらず嫌味を漏らす女に、しばらくは従順に話を聞いていたが。
そろそろ反撃だろうかと、 鳳綺は銀色の瞳を細めニヤリと笑んでみせる。

「仙ですのでいつまで経っても小娘のままですよ、申し訳ありません。
その小娘めに、人生経験の長い貴方からのご教授を是非賜りたいものです」
「……何ですって?」

ニッコリと、嫌味なほどの笑顔で一息に告げれば、年配官吏のこめかみがぴくりと浮かび上がる。

「教えて頂けるんですよね?貴方が、私に遂人の何たるかを」
「っ……自分の役目を他人に聞くなんて恥ずかしい!」

女が負けじと言い返すので、鳳綺も真顔で首を傾げた。

「ですが、貴方が私に何も知らないと仰るので、貴方はご存知であるのかと思ったのですが」
「知ってたってあんたに教えたりしないわよ!」
「そうですか、では好きなようにさせて頂きますね」

これ以上煩わせないでほしいと暗に伝えれば、女は怒りに震えている。

「あんたなんか!いつか役立たずで失席させられるわ!」

鬼のような形相だった。
だけど苫珠で慣れている鳳綺は、もうそれに怯んだりはしなかった。
どうして今までこんな人の言葉を真に受けて落ち込んでいたのか不思議なくらいだった。

苫珠のような口調を真似して、さらに鳳綺は威圧的に、だけど冷静な目で相手を見据える。

「されたらされたまでです、それが私の実力だったというだけの事」

それは本心だった。
辞めさせられたくなくて、無様にしがみ付くような真似はしないだろうと思う。
これまでの鳳綺だったら怪しかったかもしれないが、今ならばもう怖くはない。

「っ……なら、震えて待っているといいわ!」

女が不敵に笑う。
鳳綺を引きずり降ろす算段でもあるのだろうか。
だけど鳳綺は顔色を変えない。

「奏上なされるならどうぞご自由に。
ですが決められるのは主上ですので、実際に私が失席されるかどうかはわかりませんよ。
それに私は自分の役目を果たしているつもりですので、自分では落ち度が見受けられませんが」
「く……、良い気になってんじゃないわよ!」
「現状を冷静に判断しているだけです。
それよりも、そんな事を奏上する前にご自分の役目を果たされた方がよいのでは?
でなければ、失席なさるのでは私ではなく、貴方になるかもしれませんから」
「っ……!」

つらつらと長い言葉が鳳綺から自然と溢れてくる。
ついに言い負かされたのか女は息を詰め、次第に拳を震わせた。

「言わせておけば……!あんたなんか……っ、あんたなんか!」

目を見開いた女は鳳綺に掴み掛かろうと距離を詰める。
だけどそれよりも早く、鳳綺は懐から抜いた短剣を女の目の前に突き出した。

「!?」
「これは護身用に持っている剣です。よく使っているので慣れてはいるのですが、寸止めできるか試してみますか?」

鳳綺の鋭い銀光で射抜くと、女は今度こそ硬直した。

「ひっ……な、なんて危ない女なの!呆れて物も言えないわ!」

女は吐き捨てながらも後ずさりし、大股で去っていった。

静かになった廊下で、鳳綺は短剣を懐にしまう。
そうして、今まで我慢していた緊張がどっと押し寄せる。

(言ってやった……!)

冷静を装っていたが、内心では冷や汗が流れていた。
忘れていた心臓の鼓動がばくばくと高鳴り、鳳綺は荒い呼吸を繰り返す。

だけど、ようやく言い負かせた。
苫珠を真似て、どこまでも強気になってみせたが効果はあったようで。
大人しく逃げて行った女官吏の背中を思い出して、鳳綺は達成感のようなものを感じていた。

ふぅ、と息を吐き仕事に戻ろうとして周りを見渡すと、
周囲には結構な人数の官吏がいて、呆然と鳳綺を見つめていた。

(やってしまった……)

人の往来が多い場所で繰り広げる事でもなかったと、
小走りで立ち去ろうとした時、誰かが拍手をする音が聞こえた。

「……え?」

するとその音が少しずつ増えていくではないか。
戸惑いを隠せない鳳綺に、一人の官吏が近付いてくる。

「凄い……あの人を圧倒させるなんて……」
「い、いえ……お騒がせしました」
「なかなか気持ち良かったよ!よく言った」
「え……あ、ありがとうございます……」

その人を筆頭に、他の人達もどうやら笑っているらしかった。
鳳綺は混乱と嬉しさで、ただずっと苦笑していた。







19章








「聞きましたか?」
「何がだ?」

珍しく尚隆が黙々と執務に集中しているというのに、朱衡から話しかけられる。
どこか楽しそうな声色で、ちらりと主の反応を覗き見る。

「最近入った遂人の女性、治朝の中で人気になっていますよ」

意外な話題に尚隆は思わず手を止めて振り返った。

「……それは本当の話か?」
「嘘を言ってどうなります」
「…………」

前回会った時には、まだ鳳綺は泣いていた。
他官吏から冷たくされているとも聞いていたが、数週間のうちに一体何が起きたというのだろう。

心配に思いつつも、尚隆は酷い事をしてしまった負い目があり、様子を見に行ってやる事を避けていた。

(六太が何かしたか?)

いや、六太は泣いている彼女に寄り添う事はできるだろうが、再起を図らせる事はできないだろう。
ならば他の要因が彼女を変えたのかもしれないと、尚隆は苦笑する。

「……心配無用だったな」
「元々素晴らしい容姿の方ですから。能力が認められれば評判もすぐに良くなるのでしょう」
「何故そこに容姿が関係している」

尚隆が怪訝な表情をするが、朱衡は涼しい顔のまま。

「噂では、銀を纏ったそれはもう美しい女性が、剣を手に舞うように治朝を治めている、と……」
「……どんな噂だそれは」
「ですが実際そのように囁かれておりますので」

訳の分からない噂に尚隆は首を傾げるばかり。
そもそも、どうして治朝にいるのに剣が必要あるのか不思議でならない。

「多少の誇張はあるにせよ、興味を持ってその女性を見に行く官が増えているそうです」
「…………」

苦虫を噛み潰したような顔をする尚隆を盗み見て、朱衡は内心でくすりと笑う。
この飄々とした王が余裕のない顔をするのは珍しい現象なのだ。

「六太は?」
「台輔ならおりませんよ、いつものように」

通常ならば麒麟の不在に冷たい笑みを浮かべるのだが、今回は当然とばかりにしれっと言い放つ。
どうしてか、逆に尚隆の方が咎められているような気にさせられる。

「朱衡、しばらく出ても構わんか?」
「何を言っているのですか主上らしくない。そういう時は黙って出て行かれなさい」
「……そうか」
「それではその書類を持って席を外しますので、くれぐれも抜け出したりなさいませんように」
「……わかった」

その間に出て行けという、実にわかりやすい言葉。
あの朱衡が道を空けるなど、後が怖いかもしれないと尚隆は苦笑する。

「主上にはやるべき事をやっていただきます」
「ああ」

そうして腹心に背中まで押されて、尚隆は執務室を抜け出した。


玄英宮の主が、人目を避けながら下へ降りていくのは少し滑稽だ。
別に堂々と歩いてもよかったのだが、騒ぎになるのも面倒だった。

こそこそと治朝に辿り着くと、わりとすぐに鳳綺を見つけた。
何故なら男達が鳳綺を囲むように歩いていて、
そこだけ人だかりのようになっていて凄く目立つのだ。

浮ついた声で喋る男に、輪の中心で笑いながら相槌を打つ鳳綺
少し前には考えられなかった光景に尚隆は驚いた。

(何が、あいつを変えたのか……)

いきなり遂人にした事で、風当りが強くなる事は想定済みだった。
それでも自力で何とかして欲しいと思って、手を貸す事はしなかった。

それが今、少しだけ悔しい。
何かが、もしくは誰かによって変わるきっかけを見つけ、そして実際に鳳綺は妬みにも打ち勝ち、周囲の支持も得た。
喜ばしい事なのに、それに自分が関与していない事に不満を感じている。

尚隆はただ弱っていた鳳綺を突き放し、傷付けただけだった。
精神的に辛い時期に助けてやれなかった。

「…………」

尚隆は拳を握りしめる。

この感情は自分の我が儘だ。
鳳綺がどうしていれば自分は満足だったのだろうか。
自問しても答えなんて出てこない。

だから、他の男達が彼女にすり寄って行っても、それを追い払うだけの資格がない。
ましてや、そしらぬ顔で鳳綺と顔を合わせ、「よく持ち直せたな」と声をかける事も白々しすぎてできない。
鳳綺からすれば、自分を傷付け突き放した男にそんな事言われても腹が立つだけだろう。

「――で――なんですね」
「……はい、ありがとうございます」

男が何かを言うと、鳳綺は静かに微笑んだ。
仕事が充実して楽しいのか、それとも違う理由なのか、
嬉しそうに頬を緩ませる表情が遠くからでもはっきりと見えた。

あの吸い込まれるような銀色の瞳に、男は魅了されてしまうだろうと思うと拳に力が入る。
次に尚隆が鳳綺と対面した時、果たして彼女はあの目を向けてくれるのだろうか。

(ないかもしれないな)

彼女は自分を王として扱い、距離を置き、そして尚隆の名を呼ばなくなった。
それだけでなく、あんな事をした尚隆に対して、怯えや憎しみの顔をする可能性も十分に考えられる。

もう、鳳綺の溢れんばかりの笑顔を近くで見る事はできないのかもしれない。

「……手遅れかもしれないな……」

鳳綺の役に立つだろうと遂人に据えたが、
自分と近い所にいさせれば接する機会が増えるという欲も確かにあった。
後はどうとでもできるだろうと、余裕に思っていた。

だが、刻が流れれば人の心は変わる。
尚隆達が何年生きているのかわからなくなってきているのに対し、
つい最近まで市井の民であった鳳綺にとっては数年間は長いだろう。

「行かないで」と泣き、「傍にいて」と尚隆を追いかけたあの頃から、もうどれだけの月日が経っているというのか。
良い意味で日々変わっていく鳳綺に対して、尚隆だけが変わらず取り残されているのではないだろうか。

鳳綺が、尚隆から離れていく。
その可能性を見出してしまった事に、今更ながら焦りを感じていた。


「主上……!こ、このような所へ……っ!」

慌てた様子の官吏の声が背後から聞こえる。
こんな無様な真似をしている事を彼女に知られたくなくて、尚隆は険しい顔で逃げるように踵を返す。

一度見つかってしまえば、周囲にはすぐ伝達されてしまう。
途中ですれ違う官達が一様に端に寄り、叩頭する。
尚隆に向かって、誰もが地に頭を擦りつけて。

整然と並ぶ頭が皆、尚隆ではなく『王』を見ていた。

(苛々する)

当たり前な光景なはずなのに、今は腹が立って仕方ない。

「何をやっている」
「……は……?」

近くの官に無意識に問いただしていた。

「何をやっているかと聞いている」
「え……叩頭礼、を……」
「何故礼などする?」
「こ、これは敬意を表しているからで……」

たまたまそこにいた官は、何と答えたらいいのかわからず狼狽する。

「……俺が王だからか?」
「、え……」
「俺が『主上』であるからか!?」
「っ……」

口調が強くなり、眉間の皺が深くなる。
突然の怒りに触れて、官は怯えたように震えている。
その様子が、あの時の鳳綺と重なって見えて、尚隆は首を振る。

「……いや、すまない。気にしないでくれ」

それだけを言うと、尚隆は後悔の溜息を付きながら来た道を戻った。
王と麒麟しか通れない禁門を渡り、内宮のさらに奥、王の為に用意された場所へ。

そこにしか、尚隆の帰る場所はなかった。











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尚隆視点。
何だか弱ってます。