17章
「はぁ……」
鳳綺は何度目になるかわからない溜息をついた。
以前の女達が火種になったのか、他の人達も鳳綺に対する風当りが強くなった気がする。
書類の束を届け、自室に戻る間にそれはよく感じた。
鳳綺を見ながら影でこそこそ話をしているのも目に付く。
露骨にぶつかって来たりするのはあの女達で、年配の男性にはちくちくと嫌味を言われた。
ひどい仕打ちではないにしろ、言われて良い気分にはならない。
むしろ本当の事を言われているようで、気を緩めれば涙がにじみそうになる。
(そんなにも上官が自分より年下なのが嫌なのかな……)
国府はもっと真面目で、国の為にひたすら勤勉な人ばかりがいると思っていた。
こんなに人間らしく、陰湿な場所だったのは意外だった。
だけど、皆の気持ちもわかる。
いきなり何もわからない小娘が中級官になれば、
今まで努力していた自分が無碍にされた気持ちになって不快に思う事もあるだろう。
わかってはいる。
だけど、だからといって皆の嫌がらせを受け入れられる程、鳳綺は出来た人間ではない。
「悔しい……」
鬱々とした気持ちのまま机に腰掛け、残りの仕事に取りかかった。
灯された明かりがゆらゆらと揺れる。
しかしすぐにまた、進み始めた筆が止まってしまうのだ。
このままじゃいけない。、そう思うのに身動きが取れない。
鳳綺は官吏が夢だったはずで、この為に今まで勉強してきた。
なのに、頭をよぎるのは嫌な事ばかり。
そして彼女達に反論できない自分にも嫌気がさす。
そこへ来客を示す扉を叩く音がして、鳳綺は我に返る。
「?……はい」
もう夜も深いので六太が来たのかもしれない。
目尻を袖で拭くと、ゆっくりと扉を開ける。
そして鳳綺は凍り付いた。
「!!」
「……よう」
白銀の瞳を零れんばかりに見開いた。
茫然と目の前にある現実を受け入れようと鳳綺の頭は必死だった。
「……尚、隆……っ!」
官服姿のままの尚隆がいた。
あの時、鳳綺の前を通り過ぎていった延王の姿で。
どうして彼がここにいるのだろう。
いや、そんな事よりも尚隆がわざわざ鳳綺に会いに来てくれたのだ。
飛び上がるほどに嬉しい。
だけど今日は、その感情以外の何かが胸の奥に黒い染みを作る。
尚隆はいつものように余裕の笑みを浮かべている。
「入るぞ」
「え?あ……っ」
鳳綺の狼狽など気にも留めずに進み入る。
尚隆は部屋の棚の様子をぐるりと見渡してから口を開いた。
「元気だったか?」
「……はい」
あまりにいつも通りの様子で、どう反応していいかわからない。
近づいてくる気配を感じて、まともに尚隆を見られない鳳綺は俯いた。
少し前まで泣きそうになっていた顔など見られたくない一心だった。
「…………」
「…………っ」
じっと見下ろされて、鳳綺は何も言えない。
だが、ぐいっと顎を引かれて強引に尚隆と目を合わせられる。
「あ……っ」
不安になるぐらい深い漆黒の瞳が目の前にある。
その闇に全てを見透かされているような気がして、鳳綺は怯んだ。
「何を泣いていたんだ」
「、え……?」
「前に廊下にいた時も今もだ。何を泣きそうになっている?」
(……知ってたんだ……)
実際に尚隆の前では泣いていなかったはずだが、彼にはお見通しなのだろう。
嬉しいような、これ以上踏み込まれたくないような、複雑な感情で鳳綺は目を逸らす。
「……何でも、ありません」
「何でもない訳がないだろう」
「…………」
(その目で、私を見透かさないでほしい)
でないと、鳳綺はこの渦巻いている感情を口走ってしまいそうになる。
泣いていた理由ではなく、ずっと尚隆に聞きたかった事を。
弱り切った状態では彼を責めてしまうかもしれないから。
(……!)
尚隆に髪を撫でられている感触がする。
嬉しいはずなのに、今は何故か逆効果だった。
「…………主上」
ぴくりと尚隆の手が止まる。
「……どうして、私が遂人になったんですか?」
「お前にはこれが適任だと思ったからだ」
「何で……っ」
顔を上げると、そこには静かな漆黒があって思わず言葉を詰まらせる。
「……わ、私は右も左もわからない小娘ですよ?どうして、そんな私を……」
「不服か?」
「…………」
鳳綺には答えられない。
押し黙ったままお互い何も言わず、時が流れる。
正確には尚隆がこちらを見つめているのを、鳳綺が必死で反らしていたのだが。
深い色の双眸に威圧されているようだった。
「……私は……もう貴方に会う気はなかった」
「…………」
微かに尚隆の眉間に皺が寄る。
言ってはいけない事だと思いながら、止められなかった。
「私は、遠い所で……貴方を見ながら、生きたかった」
「何を言っている」
「私は……こんなのは、望んでいなかった」
駄目だとわかっている。
だけど嫌な感情しか出てこない。
「官吏になりたかったのだろう?」
「それはそうです!でも、こんな大役になりたかった訳じゃない……っ」
鳳綺が言葉を吐き出すと、呆れたような溜息が聞こえる。
いつもとは違うその気配に、鳳綺はさらに顔を曇らせた。
「夢だと言ったから良い場所を当ててやったんだぞ」
「、え……?」
「お前が望む通りにしてやったんだ」
鳳綺は目を見開いた。
(それは、つまり……)
聞きたくなかった答えを知ってしまった気がして、恐る恐る声を絞り出す。
「それじゃあ……私を遂人にしたのは……っ」
「俺がそうさせた」
「……!!」
鳳綺は弾かれたように尚隆から離れた。
(ああ、やっぱり私は……)
事も無げに言い放つ尚隆に恐怖すら覚えた。
絶望感で泣いてしまいそうだ。
「やっぱり私は、能力を認めてもらった訳ではないんですね……」
「何を言っている。お前に―――」
「私には無理です!どうして……どうして、私ばかり!私はただ……っ!」
涙が溢れた。
それを見た尚隆は眉を顰めながら鳳綺の肩を持とうとする。
「鳳綺」
「触らないで!」
「…………」
振り払った尚隆の腕が宙を漂って降ろされる。
(実力なんかじゃない……!)
あの女達の言う通りだったという事だ。
王の命令があったから、こんな不相応の役職になった。
尚隆や六太がいたから官吏にさせてもらえたんだ。
(だから私は……他人から冷たくされるんだ……!)
八つ当たりだとわかっている。
怒る相手が違う事もわかっているのに、嫌な感情が止まらない。
尚隆のせいにしてしまう自分が嫌だ。
だけど積もり積もった不安や悲しみや怒りがごちゃ混ぜになって、訳がわからない。
癇癪のように尚隆を遠ざけ、ぼろぼろと泣きながら嗚咽を漏らす。
こんな醜い自分は見られたくないと、顔だけは何とか隠すようにして。
しばらくそのまま泣き続けていると、じっと真顔で鳳綺を見つめていた尚隆が静かに口を開く。
「前の勢いはどうした?」
「っ……?」
「以前のお前なら、そんな弱音は絶対吐かなかった」
「…………」
「今のお前は俺の知っている鳳綺ではない」
「…………!」
尚隆は踵を返し部屋を出て行こうとする。
失望されたという事実に、鳳綺の顔から血の気が引いた。
「ま、待って!……主上!」
尚隆の背中が止まる。
呼び止めたはいいものの、何と言い訳すればいいのかわからない。
動揺で全身が震え、胸がどくどくと音を立てる。
「……俺は『主上』という名ではない」
六太と同じような言葉を彼も訴える。
(だけどもう、貴方には今まで通りでいられない)
何も知らなかったあの頃のように無邪気に接する事なんてできない。
ひとたびこの部屋から出れば、尚隆は皆に傅かれる存在で、鳳綺は平伏して顔さえも見られないのだ。
「……わかっています。だけど……貴方だって、変わってしまった」
掠れた声でそう呟けば、尚隆が険しい顔で振り向いた。
「俺は何一つ変わっていない」
「変わったのは、貴方と私の立場です……もう、以前のように接する事はできません……」
胸が痛い。
ただの恨み言だと思う余裕は鳳綺にはなく。
ただ、この現実から逃げてしまいたい気持ちでいっぱいだった。
咎めるような目を見ていられなくて俯くと、突如尚隆が大股で近付いてきて鳳綺の腕を強く掴んだ。
「い、たっ……!」
「立場がどうだろうが、現に今触れているではないか」
「それでも……っ、貴方は王です」
駄目だ、これ以上は言ってはいけない。
頭の奥でそんな警鐘が鳴っているのに、全てを吐き出してしまいたいと思う自分もいた。
ずっと我慢して押し殺して、自分自身に言い聞かせてきた事実を。
「そんなに立場が恐いか!王がなんだ、そんな身分いくらでもくれてやる」
「だから……それが嫌なんです!」
「それはお前が逃げているからだ!やろうと思えば何処ででも生きていける!」
さらに腕が強く握られて、鳳綺は痛みに顔を歪ませる。
だけど尚隆の激昂もおさまらない。
「全てから逃げて、今この痛みも否定するつもりか!」
「……いたっ……、主上……!」
ぐいっと引き寄せられて激しい怒りの目が至近距離に迫る。
「俺の名はそんなものではない!」
「貴方は主上です!」
尚隆の声量に負けじと叫び返せば、ぴたりと喧噪が止んだ。
じっと此方を見据える目に、次は何を言われるかと警戒するが言葉はない。
二人は荒い呼吸のままで、視線を外さない。
「……わかった」
長い沈黙の後、尚隆はそう答えた。
鳳綺はこの腕を放してくれるものと思っていた。
「俺は……王だ」
「……はい」
残念ながらその事実は変わらない。
静かに返事をするが、尚隆の目はふいに細められる。
「王ならば何をしてもいいのだろう?」
「、え……?」
一瞬、言っている意味が理解できなかった。
その隙に部屋の奥へと連れていかれ、そのまま寝台へと半ば乱暴に投げられる。
「な、何を……!?」
倒れ込んだ衝撃をやり過ごし、抗議の声を上げようとしたができなかった。
近付いてきた尚隆が鳳綺に覆い被さり、唇を塞がれた。
「ん……っ!い、嫌……!」
咄嗟に振り払おうとするが、両手で腕を押さえ込まれ身動きが取れない。
どうしてこんな事になったのかわからない。
無言で、ただ力任せな尚隆に恐怖を感じた。
「や、めて……下さい!」
僅かに離れた唇で何とか言葉を紡ぐが、尚隆は一層力を強めながら楽しそうに笑った。
「俺は王だ。したい事をしているだけだ、そうだろう?」
「っ……!」
ぞくりと、背筋が凍った。
鳳綺を見下ろしている、恐ろしいほどに冷たい漆黒の瞳。
全てを拒絶する静かな闇が、鳳綺の心を覗いて笑っているようで。
「い、や……んん……っ!」
言葉や目とは裏腹に激しい唇。
一瞬の隙も逃がさないとばかりに熱い舌に侵入され、口内を荒らされる。
(こんなのは、違う……!)
尚隆に触れられたって、こんなのは嬉しくない。
ただ恐くて、涙がぼろぼろ零れた。
「や、めて……っ、主上!」
無遠慮に体を撫でられ、解放された腕で鳳綺が尚隆の厚い胸を押し返そうとしても、非力な力では全く動かない。
止まる事のない尚隆の舌が、鳳綺の首筋をなぞる。
「あ、…っ……!」
甘い声が出た。
自分でも知らなかった女の声がして、鳳綺は顔を真っ赤にさせながら必死でもがいた。
だけど尚隆は唇を寄せながら、さらに胸元の襟に手をかける。
「!い、嫌ぁ!……っ……、尚隆!!」
名前を大声で叫べば、ようやく尚隆の動きが止まった。
「はあっ……はぁっ……!」
鳳綺は胸元を押さえて荒々しく空気を繰り返す。
涙でぐしゃぐしゃになった銀色の目で、咎めるように見上げると。
「……それでいい」
一転して尚隆は悲しそうに小さく笑い、
あっさりと身を引くと何事もなかったかのように部屋から出て行った。
「……う、……っ……」
しんと静まり返った寝台で、鳳綺は自身を抱き締めるようにして縮こまる。
震えが止まらない。
あんなに恐い尚隆は見た事がなかった。
「……、……尚隆……っ」
鳳綺が悪かったのだ。
完全に八つ当たりで不満をぶちまけてしまった。
官吏になりたかったのに、こんなのは違うと言ってしまった。
失望して怒っても無理はない。
そして、彼が望んでいないにも関わらず、勝手に鳳綺が尚隆との間に線引きをした。
彼の立場からすれば、今まで対等のような関係だったのに、
身分を知った途端態度を変えられれば不快に思うも当然だろう。
(そう……私が、傷付けた)
傷付いた尚隆は、ただ鳳綺に名を呼ばせる為だけにこんな事をしたのだろう。
あんな、寂しそうな目をさせてはいけなかったのに。
「ごめんね、尚隆……っ!」
わかっていたのだ。
嫌な事からも、尚隆からも逃げていたのは自分だと。
(だけど、もう遅い)
全て壊してしまったのは自分だ。
どんなに後悔しても、きっともう尚隆との繋がりは取り戻せない。
「、ごめん…なさ…っ!」
どんなに大きな声で泣き叫んでも、もう誰もやっては来ない。
寝台に顔を埋めても、押さえ付けられた腕の痛みは消える事はなかった。
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波乱な回になりました。
どん底の状態。