「ふぅ……こんなものかな」
鳳綺は持ってきた荷物を一通り整頓した所で取りあえず息をついた。
関弓山の中腹と雲海の間あたりには治朝があり、中級官の官邸などが並んでいる。
その中の一つが鳳綺の新しい住まいとなった。
遂人は大抜擢ではあるが位で言うと中大夫で、治朝も雲海の下だ。
凌雲山にいるとはいえ、雲海の上にある王宮とはかなりの隔たりがある。
以前遂人だった帷湍という人物は、延王から特別な処遇を受けていて何処でも出入り可能だった、という有名な話がある。
だけど特別な何かなどない鳳綺には苫珠が期待するような、王と接する機会などありはしないのだ。
「主上、か……」
ぽつりと出た声は、自分が思った以上に寂しい音をしていた。
立場を言葉にすると、本当に遠い存在なんだなと感じさせられる。
小さく溜息をつき、中断していた作業を再開させようとした時。
扉を控えめに叩く音がした。
こんな夜更けに誰だろうと鳳綺は慎重に扉を開ける。
するとそこには、まばゆい黄金の髪色をした少年がいた。
以前のように頭を布で覆ってはおらず、麒麟特有の鬣が鮮やかに揺れている。
「……台輔……!」
驚いて呆然としていると相手が先に遠慮がちに笑った。
「よお……鳳綺」
申し訳なさそうに見上げてくる六太にしばらく鳳綺は固まっていたが、平静を取り戻すと静かに微笑んだ。
「……お久しぶりです、台輔。中へどうぞ、まだ散らかってますけど」
「あ、あぁ……」
本当は麒麟に対してこんな砕けた接し方をしてはいけないのだろう。
だけどあまり線を引きすぎてもいけないかもしれないと、
鳳綺は努めて今まで通りの対応をしようと六太を小卓に招いた。
女将に貰ったとっておきのお茶を入れて鳳綺も向かいに座る。
「こんな夜更けにどうしたんですか?」
「いや、鳳綺が来たって聞いたから……もう此処には慣れたか?」
「まだ来たばかりですよ?慣れるも何もありませんよ」
「あ、そうか……」
気まずそうな顔をする六太は二年前と全く変わらない様子で、やはり彼は麒麟なのだなと実感する。
だけど変わらない少年らしさを見ると、懐かしさも感じて鳳綺は自然と笑顔になる。
「…………」
そうして、六太は黙り込んでしまう。
何かを言いたそうにしながら、何と言ったらいいのかわからず言葉が出ないという顔を繰り返している。
彼が何を話しにきたのかは、鳳綺でも大体の想像はつく。
だから上手く切り出せず俯いている六太の代わりに、鳳綺は微笑みながら口を開いた。
「……私は、大丈夫ですよ?」
六太はようやく顔を上げた。
それにつられて金の髪が揺れて輝いた。
「私は大丈夫ですから」
「……でも……」
「だから台輔もいつまでもそんな顔をなさらないで……台輔は前みたいに笑っていて下さい」
「…………」
それでも六太は納得できないという顔をしている。
「……尚隆の事は、もういいのか?もう好きじゃないのか?」
いつかその質問をされるだろうとは予想していた。
だから鳳綺は完璧な笑顔で答える。
「……あの人は、主上です」
それだけが唯一の答えで、それ以外はもう有り得ないのだ。
何度も何度も心に言い聞かせて、抑え込んできた。
「……そうか」
六太はどこか悲しい顔をして、掌にある茶を流し込む。
「俺は……鳳綺に後宮に入って欲しかった」
息を吐き出して、消え入りそうな声でぽつりと呟いた。
鳳綺は目を伏せ、湯気の立つ湯飲みを眺める。
その話を切り出された二年前のあの日も、こんな風に女将に淹れてもらった茶を見つめていた。
あっという間に月日が流れたが、鳳綺にとっては長い二年だった。
「……もう過ぎた事です」
ちくん、と胸に何かが引っかかりながらも、言葉を詰まらせる事はもうない。
(大丈夫、ちゃんと気持ちの整理はした)
だから冷静に答えられるようになったはず。
たとえ胸が痛くて苦しくても、心の奥底に封じ込める。
痛みの意味は、これからもずっと知らない振りをしつづける。
「……台輔」
「なあ、鳳綺」
「はい?」
「その『台輔』っての止めないか?鳳綺に言われると……何か変な感じ」
距離ができたようで嫌なのだろう。
六太は苦い顔をするが、鳳綺は肩をすくめて苦笑するしかない。
「何言ってるんですか。今まで通り『六太』と呼べと?」
「俺が良いって言ってるんだから――」
「台輔は『台輔』です。それに呼び方が変わったとしても、貴方は私の大切な友達の六太です。
内面の気持ちに変わりはありません」
それが鳳綺の素直な気持ちだった。
それを聞いた六太は困惑しながらも納得できたのか、照れたように笑った。
「そ、そうか……」
はにかんでいる六太を余所に、鳳綺は密かに目を伏せる。
(そう……貴方はね……)
六太に対しては呼び方と敬語が変わっただけで、心に違いがないのは確かだ。
だけど、尚隆に対してはそれはできないだろうと思う。
きっと尚隆を前にしてしまったら、鳳綺の心はいとも簡単に揺れるだろう。
ましてや官吏になってしまったのだから、ただの何も知らない大学に通う女ではもういられない。
今まで通りなんて無理な話だ。
だから正直言ってしまえば、六太は大歓迎だけど、彼には会いたくない。
「なら面倒臭い事言わないで『六太』でいいじゃん」
「だって……形式というものもあるし、私は新参者ですから」
引き下がらない六太に苦笑してつい本音を喋ってしまった。
でもこれで十分理解してくれる相手だから嬉しい。
「……まぁいいか。鳳綺が前のままの鳳綺だってわかったから気が楽になった」
「私は変わってませんよ?」
「そうだな、頑固な所は全然変わってない」
アハハと六太が冗談交じりに笑い、鳳綺もつられて声を上げた。
他愛もない話で笑い合っていると、六太が立ち上がる。
「あ、じゃあ俺そろそろ行かないと」
「はい……お気を付けて」
体重を感じさせない軽い足取りで扉に向かう六太。
その背中を鳳綺は無意識に呼び止めた。
「台輔……」
「ん?どうした?」
綺麗な金の髪を翻して六太が振り返る。
喉から出かかった疑問は結局音にならず、鳳綺は呑み込んで首を横に振った。
「……いえ、何でもありません。おやすみなさい」
「あ、ああ、おやすみ」
静かに閉じられた扉を見つめて鳳綺は溜息をつく。
(……どうして私なんかが遂人になれたのだろう)
それを訊ねたら六太は答えてくれるだろうか。
知りたいのに、やっぱり知りたくなくて、鳳綺は真実から逃げるように作業を再開させた。
16章
それから数日後には本格的な仕事が始まった。
最初は前任の仕事内容を引き継がなければならないのだが。
「はぁ……なんて量なの……」
鳳綺は自分に当てられた机で書類の山を片付けながらぼやいた。
まずはこの紙の山を分類分けをしていかないと仕事にならない。
「やっぱり、全然下っ端の役職なんかじゃないな……」
空気と気分を入れ替えようと軽く窓を開ける。
(本当に、何で私が遂人なんだろう……)
日に日に鳳綺の不安は増していくばかり。
考えてみて欲しい。
大学を修了したからってそうそう国官になれるものではない。
州府にでも入れれば良い方だと思っていたのに。
この関弓山に招かれるのは一部の才能溢れた選ばれた人間であって、
ただ大学を出ただけの全く未経験の自分ではない。
それなのに鳳綺は今こうして遂人になっている。
それはつまり、どういう事か。
「、駄目だ……」
また考え込んでしまっていたと、鳳綺は頭を横に振った。
最近は、気付けばいつもそうだ。
(せっかく抜擢されたんだから、やれる事からやっていこう……)
口添えがあってもなくても、もうこの役職を与えられたのだ。
だから全力でやるだけだと、鳳綺は書類を抱えて部屋を離れた。
まだ見慣れない豪華な廊下は入り組んでいて解り辛い。
書類を届けに行くだけなのに迷いそうになる。
「えっと……」
目的の部屋を探して歩き回っていると、正面から二つの人影が見えた。
軽く会釈をして通り過ぎようとしたら、後ろから声がかけられる。
「あら、高官気取りの鳳綺様ではないですか」
「……!」
振り返ると気位の高そうな女達がいた。
確か、鳳綺よりも下官のはずだった。
「どうやって取り入ったのか知りませんけど、随分と自慢げなご様子で」
「私達にも教えて頂きたいわ、その悪知恵を」
嫌な高笑いが廊下に響く。
「……私は、何もしておりません」
眉を潜め、精一杯の抵抗の目で答えた。
いつもなら典型的な女の陰湿さなど相手にしないが、
今回は日頃から気にしていた事を指摘されたせいで反論の言葉が出ない。
「聞けば台輔も貴方と親しいとか」
「あんなに小さな台輔が騙されているなんて……可哀想で可哀想で」
「台輔は関係ありません!」
キッと女達を睨み付けるが、彼女達は怯まない。
「貴方みたいな小娘が図々しい!ここは貴方のようなのが来る所ではないわよ?」
「せいぜい失席されないように頑張って下さいね、鳳綺様」
そう言い残して女達は去っていった。
しん、と静まり返った廊下を歩く鳳綺の足取りは重い。
女達の言葉が頭に響く。
(わかってるわよ……それくらい……)
だけど言い返せない自分が悔しい。
視界が滲んでいくのを必死で堪えながら書類を握りしめる。
泣きたくない、あれくらいで泣いてしまうような弱い女になりたくない。
目に力を入れて、ひたすら足を動かす。
目的の部屋に着く頃には完全に涙を乾かして、平静を装って書類を届けた。
帰り道、治朝に勤めている官吏達が何だか騒がしい。
慌てふためいている人もいて、何かあったのだろうかと様子を窺おうとすると。
「しゅ、主上……!」
一人の官吏が発した声に、鳳綺の肩がびくりと飛び上がる。
「このような所に……!」
「たまには散歩もしないとな」
(この声は……!)
絶対に聞き間違えたりしないぐらい体が覚えている。
どれだけ気持ちを押し込めても、過去にしようとしても、
たった一声だけで鳳綺の心が叫びを上げる。
(ああ、やっぱり私は……)
彼以外の人間を想う事など、できないのだと悟った。
以前苫珠に、雄飛や他の男に目を向けてみなと言われた。
あの時は、友達としての好きと、男としての好きはどう違うのかわからなかったけど。
(全然違う……!)
全身が勝手に震えて、電流が走ったようにその場に縛り付けられ、動けない。
胸が痛くて苦しくて、だけど泣きたいくらいに嬉しいのだ。
顔を上げると遠くの方でうっすらと人影が見える。
平伏している官の前に立っている、一般官吏の服とは明らかに違う上質の物を纏った人物。
髪の結ってある場所は鳳綺の覚えている位置よりも上にあるが、いつもの余裕の顔付きは変わらない。
(……尚隆……!)
もう会わないと思っていた人がそこにいる。
叫びたい、走り出したい、だけどできない。
ただ立ち尽くして、久しぶりに見る尚隆の顔を見つめ続ける事しかできない。
尚隆はその場にいた官吏と話をした後、共も連れずに真っ直ぐ廊下を歩いてくる。
廊下にいた官達が平伏するのを見てはっと我に返り、慌てて鳳綺も隅に寄り頭を地に付けた。
(こっちに来る……!?)
視界が床だけになったなかで、静かな足音だけが次第に大きくなる。
響く沓の音、それが通り過ぎるかと思いきや、鳳綺の目の前で止まった。
(え……?)
少しだけ目線を上げると、すぐ近くに高級そうな刺繍が入った服が見える。
動揺と緊張で鳳綺の鼓動がどくどくと脈打つ。
何も言わず動かない人影、そして鳳綺は動けない。
途方もなく長い時間のように思っていると、再び王は歩き出す。
足音は瞬く間に消えて行った。
(尚隆は……主上……)
鳳綺は立ち上がり、消えてしまった後ろ姿を思い返す。
(こんなに近くにいるのに……触れられない……)
胸が痛い。
立ち止まって、話しかけてくれる事を心のどこかで期待していたのだろうか。
何も言われず立ち去られた事を、少なからず悲しく思っている自分がいる。
もし会ってしまったらどう接しようと考えた事もあるのに、
実際は目も合わせる事ができなかった。
(やっぱり遠いね、尚隆……)
だから、会いたくなかったのに。
思い知らされたくなかった。
鳳綺の決意など、いとも簡単に崩れ去ってしまうのだから。
堪えていた涙が、鳳綺の頬を流れた。
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なんかヒロイン弱くなってます。
自分が気にしてる事を指摘されると、余計に刺さりますよねという話。