鳳綺は必死に走っていた。
息を切らせながら、それでも休んではいられないと足を動かした。
凌雲山の麓、関弓の活気のある大通りを人にぶつからないように走り抜け。
目的の食庁まで辿り着くと、扉を勢いよく開けた。
「ごめん!遅くなっちゃって――」
「遅い!いつまで待たせんの!」
待ち構えていたのか、仁王立ちの苫珠が目の前で吠える。
「ご、ごめんってば!でもどうしたの急に呼び出して……」
そう、鳳綺は悪くないのだ。
伝言を頼まれたらしい雄飛に突然食庁に来いと言われ、
元々の予定を終わらせると大慌てで此処まで来たのだ。
だがそんな事は口に出さず、反射的に謝りながら店内に入ると、苫珠の背後には雄飛と女将も立っている。
よく見れば小卓には豪勢な食事が並べられている。
「え?何?みんなして……」
「あんたの祝いよ」
「祝い?」
「大学修了の祝い!見てわかりなさいよ!」
「あはは、ごめん……」
いつにも増して凄い剣幕の苫珠に、鳳綺は苦笑する。
「ま、まあまあ……苫珠」
「雄飛!あんたが甘やかすからこんな風になるのよ!」
「う……」
宥めようとした雄飛だったが、完全に藪蛇だった。
苫珠は雄飛を睨み付けると、鳳綺を指差しながら牙を剥く。
酷い言われようである。
「はいはいはい、気が済んだかい苫珠?」
微笑ましいものでも見るように笑っていた女将がついに助け船を出した。
直接な雇い主な為、流石の苫珠も静かになるしかない。
「素直に言えない子だねぇ。鳳綺、苫珠が最初に内輪で祝ってやろうって言い出したんだよ」
「なっ!女将さん!」
「違うのかい?」
「今はそんな話をしてるんじゃないんです!」
「いいじゃないか、減るもんじゃないし。ほら鳳綺、入った入った」
「う、うん……」
ちらりと覗くと苫珠は怒ったような顔をしてそっぽを向いた。
その赤らめた顔を見て鳳綺は嬉しくて仕方ない。
本当に苫珠は強がっているだけで、優しい心を持っているのだ。
だからいつもの剣幕も、本気でそう思っている訳ではない事を知っているから、鳳綺には効かない。
また怒るかもしれないなと思いながら、鳳綺は隠しきれない笑顔を零した。
14章
今日は、鳳綺の大学修了の祝いだった。
最低四年はかかると言われている所を、鳳綺は三年という驚異的な早さで修了した。
一番近くで見ていた雄飛は、目まぐるしい三年間だったと思っている。
落ち込んでいる期間が続いていた後、一年ほど前に苫珠と知り合った頃から、
鳳綺は何かが吹っ切れたように見えた。
人が変わったようだと形容すると言いすぎかもしれないが、突然猛勉強を始めたのだ。
もちろん以前だって勉学はきっちりと修めていたが、強い意欲を感じた。
しかも無理なく、楽しんでやっているようだったから雄飛は安心したのを覚えている。
苫珠との出会いが、彼女を良い方向に行かせる一つのきっかけになったのだろう。
傍から見ていると鳳綺が苫珠に虐げられているようにしか見えないのだが、当人達はそうでもないらしい。
不思議な友人関係だなと思いつつ、それほどまでに打ち解けられる友人ができて少し羨ましいとも思った。
「で?官吏にはなれるの?」
苫珠が料理を口に運びながら率直に聞いた。
「それはそうなんだけど、どこに配属されるかはまだ決まってなくて」
「それでも国官なのは確かだけどね」
「実感は湧かないけど……」
無我夢中でやってきただけなので、夢が叶ったという自覚はまだない。
何だか長いようであっという間だったなと鳳綺は思う。
「王の側近とかになったら面白いわね」
「苫珠~?」
「何よ」
一年前、苫珠と夢の話をした時。
官吏になって、もし延王に出会ってしまったらどうするのかという話もした。
いくらなんでも側近になんてなる訳はないが、苫珠は半分面白がっているのだ。
鳳綺が怒ったような目を向けてみるが効果はない。
「でも鳳綺なら外朝や治朝も夢じゃないと思う」
「う、うん、ありがとう。次は雄飛だよ、頑張ってね!」
二人の目での会話に気付いていない雄飛は真面目に頷いてくれる。
鳳綺は諦めて雄飛に話を振るが、彼は苦笑した。
「鳳綺みたいにそんなに早く修了できないよ。早くてもあと二年はかかるかもしれない」
「二年で終われるの?あんたみたいなお人好しが」
「うぐ……」
自覚があるのか雄飛は言葉を詰まらせる。
だけど鳳綺は気にせず笑っている。
「雄飛ならきっと大丈夫だよ」
「もっとお人好しに言われてもねぇ」
「……それって私の事?」
「他に誰がいるのよ」
雄飛も鳳綺も、苫珠から見るとお人好しらしい。
ニヤニヤと笑っている苫珠を鳳綺はじっと見つめる。
「……なら、苫珠もお人好しだよね」
「はあ?」
怒ってくるかと思いきや鳳綺は嬉しそうに笑っていて、苫珠は唖然とした。
「だって、いつも何だかんだ私と雄飛の心配してくれるから」
「……っ」
予想外の言葉が返って来て苫珠は狼狽した。
赤くなってしまった顔を咄嗟に隠そうとしたが、この場では無理だった。
「ははは、苫珠の負けだね」
若者たちのやり取りを見守っているつもりだったが、耐え切れず女将は笑ってしまった。
苫珠が来て、此処の雰囲気は明るくなった。
彼女は素直になれず口調も乱暴なだけで、かなり仲間思いな所がある。
それを鳳綺はわかっていて、怒ったように照れている苫珠を見て笑っている。
そう、鳳綺が元気になった事が何よりの祝いだ。
泣いてばかりだった鳳綺があんなに楽しそうにしている。
笑った顔、少し怒った顔、照れた顔、様々な表情を見せてくれるようになった。
白銀の瞳がきらきらと輝き、動きと共にふわりと揺れる黒髪。
今までの事を忘れている訳ではない。
だけど、雄飛や苫珠達と共に前に進んで、そして笑っていられるならそれでいい。
(いい友達を持ったね、鳳綺)
女将は頬を緩ませて、騒ぐ三人を眺めていた。
楽しかった時間が終わりに近づくと、雄飛は一足先に大学へ戻った。
主役はゆっくりしておいでと言われ、鳳綺は通りの景色に溶け込んでいく雄飛を見送った。
「雄飛も可哀想に。ずっと勉学もそっちのけで鳳綺を気に掛けてやってたのに、いつの間にか追い抜かれてたなんてさ」
「ま、それが雄飛の良い所さ」
鳳綺の背後で片付けを始めた苫珠と女将がそんな事を喋っている。
「肝心の真意も全く通じてないみたいだし」
「はは……少し同情はするね」
「……な、何?」
背中に二人分の視線を感じて鳳綺は恐る恐る振り返る。
「鳳綺、雄飛はどう?」
苫珠は手を止めて悪戯っぽく言った。
「どうって、何が?」
「雄飛はまぁ……お人好し過ぎるけど、呑気なあんたとなら意外と似合うんじゃない?」
「だ、だから何が?」
「……恋人?」
突然そんな事を言われて鳳綺の頬に桜色がにじむ。
「え、雄飛と!?」
「そう。どうせどっちも仙になるなら色々と便利そうだし」
「便利って、そんな……雄飛は友達だから……っ!」
動揺した鳳綺の様子に、脈が全くない訳ではなさそうだと苫珠は思う。
「友達だと思ってるなら、それなりに大事には思ってるんでしょ?」
「それはそうだけど……雄飛といると楽しいなと思うし……」
「でも嫌ではないんでしょ?」
「嫌とか何ていうか……今まで考えた事なかったから……」
「ならこれからは男として考えてあげな」
「え!?お、男って……」
鳳綺は混乱していた。
確かに雄飛の事は好きだ。
いつも鳳綺に優しくて、一緒にいると安心する。
だけど友達として大切に思う気持ちと、苫珠の言う"男"として思う気持ちとは、一体何が違うというのだろう。
「……よく、わからない」
長い間考えて、出した答えがこれだった。
絞り出すように言った鳳綺に苫珠は溜息を漏らす。
「あんた、馬鹿なのか馬鹿じゃないのかわかんないわ……」
「それ、どういう意味?」
「頭は良いくせに、そういう事には疎いんだっていう事」
「うーん……」
そうなのかな、と本格的に悩みだした鳳綺。
今はこれ以上の刺激はやめようと、苫珠は鳳綺を追い出す。
「まぁいいわ。とりあえず嫌じゃないって事はわかったから、とりあえず帰りなさいよ」
「ええ!?」
まだ残って片付けを手伝うつもりだったのに、苫珠は手で追い払うような動作をする。
「帰れ帰れ。こっちは夕方前には客入れるんだから邪魔よ」
「もう……何なの一体……」
訳がわからないまま鳳綺は女将に礼を言うと、店を出た。
頭の中で色々考えているのだろう、いつもより遅い足取りだった。
「いいのかい、苫珠?あんな事焚きつけて」
黙っていた女将が口を開いた。
「鳳綺も少しは他の男の事を考えてみたらいいんですよ。
雄飛の頑張りに免じて背中を押しただけですよ」
「……鳳綺はどう出ると思うかい?」
どうだろうか、と苫珠は思う。
「……雄飛の事を考えるようになったら、それはそれでいいと思いますけどね」
「まあねぇ……」
(そう簡単にはいかないだろうけど)
苫珠は頭を掻きながら店の表に出ると、眩しさに目を細めて天を仰いだ。
「『あの人』には悪いけど……」
苫珠にとっては鳳綺が幸せであるなら、それでいいのだ。
「雄飛の事、ね……」
大学への帰路の間、鳳綺の頭に苫珠の言葉が回っていた。
正直言うと、はっきり考えた事はないのだ。
他の人を好きになって、その人と婚姻を結んで、一緒に生きていく事を。
官吏になるなら、そんな普通の幸せは不要だと思っていた。
仕事の事しか考えていなかったけど、できない事もないんだったと思い返す。
(官吏になった先の事も、考えなきゃいけないんだよね……)
この一年、いやもっと前から、気付けば凌雲山ばかり見上げていた。
ただぼんやりと見つめて、首が痛くなった事もあった。
(でも、もうすぐそれもできなくなるかもしれない)
官吏になって地方に赴任する事になったら、関弓を離れる事になるだろう。
少し悲しいけど、それでも良いんだと最近思うようになった。
官吏であるなら、どこかで繋がっていられるだろうから。
(尚隆じゃなくて、他の人か……)
鳳綺は足を止めた。
きっと良い機会なのだろう。
いつの間にか鳳綺は考える事を放棄していた。
そう、官吏になって王を支えながら、誰かと添い遂げる事はできるのだ。
雄飛や、もっと他の人に目を向けてみる選択肢だってある。
そして、素敵だと思える人が新たにできたとしたら、それは悪い事ではない。
(それが雄飛である可能性だってある……)
鳳綺は雄飛を思い浮かべた。
いつも私に手を差し伸べてくれた人。
笑った表情を思い出すと温かい気持ちになれる。
このまま同じ時間を過ごしたら、そういう関係になったりするのだろうか。
――だけど、まばたきをした瞬間、暗闇にも負けない漆黒の髪が脳裏に蘇った。
「……っ!」
びくりと、全身が痙攣したような衝撃に鳳綺は目を見開いた。
さっきまで静かだった胸が驚いたように飛び跳ねて、痛い。
一度思い出してしまえば、記憶が勝手に次々と溢れていく。
こちらを見つめる優しい表情、それから困ったように小さく笑う漆黒の瞳。
それだけで胸がきゅっと締め付けられて、泣いてしまいそうだった。
(ああ……私はまだ、こんなにも……)
だけど鳳綺はゆっくりと目を閉じた。
この苦しさを認めたくなかった。
(きっと私は、前に進まなければいけないんだ……)
だからこれでいいのだと、鳳綺は心に蓋をした。
立ち止まっていた足を無理矢理動かして、歩き始める。
そびえ立つ山を極力見ないようにしていると、自然と速足になった。
そのまま大学の石段を最後まで登りきり、門をくぐると三年間見慣れた建物が鳳綺を出迎える。
ここにいられるのも後少しなんだと思うと、どこか寂しささえ感じた。
(あの厩も、もう行く事はないんだ……)
あそこは、まるで秘密の場所のようだった。
もう待つ事もできないと、鳳綺は自嘲するように笑った。
全てを胸に仕舞い込むつもりで風景を眺めながらゆっくりと歩く。
「鳳綺!」
ふいに聞き慣れた声に呼ばれて顔を上げると、正面の学舎から雄飛がものすごい勢いで飛び出してくる。
ここまで来ると息が切れたのか、肩を上下させて呼吸を繰り返した。
「ど、どうしたの、そんなに慌てて……」
苫珠に言われた言葉を思い出して、鳳綺は少しだけ動揺しながら尋ねる。
「鳳綺、大変だ!」
「な、何が?」
「いいからちょっと来て!!」
「え、あ……!ちょ、ちょっと!一体何なの!?」
雄飛がこんなに慌てるなんて滅多にない。
心配そうな顔をする鳳綺に何て説明したらいいのか上手い言葉が見つからず、結局雄飛は強引に腕を掴んで走り出した。
訳もわからず連れて来られた先は、とある部屋だった。
平たく言うと鳳綺達に学問を教える先生達がいる部屋だ。
「えっと……此処?」
「入ればわかる」
とりあえず扉を叩き、そろそろと中を覗く。
すると落ち着いた部屋が何だかいつもと違い、皆が慌てふためいた様子だった。
「あ、あの……どうかしたんですか?」
「鳳綺君!さぁ入って入って!」
「え、私ですか?」
先生達は顔を出した人物を見るやいなや鳳綺の周りを取り囲んだ。
「あの、この騒ぎは一体……?」
「おめでとう!」
一人の先生が肩を叩いた。
「え……?」
「君に素晴らしい話が来たぞ!前代未聞の大抜擢だ!!」
鳳綺はようやく何の話なのか理解できてきた。
「え……?私、官吏になれるんですか!?」
「何を言っている!そんな問題ではないさ!」
「え?」
首を傾げた鳳綺に、一枚の書面が渡された。
簡素な紙だと思ったが実は結構上質で、紙面の上の方には豪華なしつらえもあった。
鳳綺も気になっていたので、素早く紙面に目を通した。
「――――えっ?」
紅潮させてまで騒ぐ先生達をよそに、鳳綺は言葉を失った。
感動しているのではない、困惑で呆然とするしかなかった。
紙を持っている手が少し震えている事には誰も気付かない。
「そんな……っ!」
ようやく上げられた声は、思った以上に悲痛な色をしていた。
その紙面、一言で要約すれば次の事が書かれていた。
―――琳 鳳綺
上の者を地官・遂人に命ずる―――と。
――そう……いつもあの人は突然で。
だから、忘れさせてくれないんだ。
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また一年経ってます。
雄飛君はどこまで頑張ってくれるのでしょうか。
次回こそ尚隆&六太が出てくる事を祈ります。