「主上……たまには外出してみたらどうです?」
「なんだ、今までとは正反対の発言をするようになったな。真面目に働く王の何処が悪い」

朱衡は溜息をつく。

「いきなり変わられたら誰でも気味悪がります」

あの朱衡がここまで意見を変えるようになったのには訳があった。
事の発端は彼の主である延王尚隆と延麒六太にある。

「妻にする女を決めた」発言の後、台補はどんよりと、
主上は毅然としていたが何処となく沈んだ面持ちで帰ってきたのはいつの事だったか。
あの主上が女性に振られたという。
何かの冗談だと思っていたが、どうやら本当だったらしい。

若年で大学に通い、人柄、教養には何の問題もない女性だった為に、
朱衡としても少し残念だったのは余談だ。

それよりも最も驚いたのは、その後主上が一歩も内宮から出なくなった事だ。
人が変わったように執務しかしなくなり、「他に仕事はないのか?」と自分から催促までもしだした。
しばらくは手放しで喜んでいた官達も今では戸惑いが隠せない。

「せっかく後宮の整備も致しましたのに……」

そこで初めて尚隆は書類から顔を上げた。

「あぁ、そのままにしといて構わんぞ」
「は?鳳綺という方は入らないのではなかったんですか?」
「いい。勅命だ」
「はぁ……」

朱衡のさらに重い溜息が流れた。







11章








鳳綺
「あ、雄飛」
「今日、外に行かないか?新しい食庁ができたらしいんだ」

鳳綺は顔を綻ばせて、迷わずに笑顔を向けた。

「うん、行く」

雄飛は相変わらず鳳綺の事を気にかけてくれている。
一年前のあの時から、お互い手があいた日はこうして街に出かけるようになった。
そうしていれば余計な考えを心の内に押し込めておける。
雄飛もそれを知っていて尚且つ誘ってくれる。
いつも鳳綺の一番近くにいてくれて、そして時には泣く場所も与えてくれた。

とても優しい雄飛、彼が好きになる人は何て幸せな人なんだろう。
こういう人に想われる、それがとても羨ましい事のように思えた。


あれから一年……もうそんなに月日が経ってしまった。

大学は相変わらず忙しく、今まで休日に出掛けていた埋め合わせ分もあり、
あっという間に日々が過ぎて今に至っている。

もうずっと尚隆はあの厩に来ていない。
もし会えたとしても、拒絶してしまった王に今更どんな顔をして会えばいいのか。


――「また会おう」――


そう言ってくれたけど、既に一年。
尚隆が来なくなって少しほっとしている自分もいる。
これで今度こそ想いを過去にする事ができるかもしれないから。

だけど、それが怖いと思う自分も確かに存在していて。
忘れようとすればする程、尚隆といた時間が走馬灯のように蘇る。
心から零れていく思い出を必死にかき集めてしまうのだ。

尚隆といた、楽しかったあの時。
薄れていくはずだった尚隆の笑みが、以前にも増して鮮明に浮かんで消えた。

(……ねえ、尚隆)

いつまでもこんな苦しい思いをするくらいなら、
難しい事なんて考えないで彼に応えていればよかったのだろうか。

だけど鳳綺は怖かったのだ。
人間として普通に生きていた命が漠然と止まってしまう感覚も。
自分は何もしていないのに、突然に権力を差し出された事も。

結局は、延王という重さから逃げたのだ。

(ごめんね、尚隆……)

そうやって鳳綺は、心の中で何度も彼の名を呼んだ。


鳳綺、大丈夫?」
「……あ、うん、ごめん」

我に返って視線を横にずらせば、此方を窺うような目をする雄飛がいた。
そうだった気晴らしに外出しているのだったと、鳳綺は笑ってみせる。

今日も鳳綺と雄飛はいつもと同じように、最後は馴染みの女将がいる店に終着した。
時間帯もあってか店は繁盛していて、鳳綺達は入り口に近い場所に落ち着いた。
店の中はがやがやと話し声や食器の音に満ちている。

鳳綺はすっかり元気になったと雄飛は思う。
まだ無理している所もあるが、一年前よりは確かに明るくなった。
先程立ち寄った店の面白かった所を熱弁しては、目の前にやってきた食事に目を輝かせる。

雄飛も自然と眼差しが柔らかくなる。
過去を振り切って強くあろうとする鳳綺の傍にいられればそれでいいと。
今まで雄飛は、そう思っていたのだ。

鳳綺……元気になったな」
「え?私はいつも元気だよ」
「……もう、いいのか?」

雄飛の優しい顔が一転して真顔に戻ったので、鳳綺も箸を止めた。

「……いいの。このまま好きでいても、どうしようもない人だから……」
「そう……無理するなよ?」
「実は、無理してる。無理しないと忘れられない……でも、先に進まないとね」

鳳綺が俯くと雄飛も下を向く。
しばし二人の食卓には沈黙が訪れた。

「……なあ鳳綺……俺といると楽しいか?」
「急にどうしたの?……楽しいよ?」

雄飛は少しばかり赤面しているようだが鳳綺は素直に続ける。

「私、雄飛がいなかったら多分駄目になってた。雄飛がいてくれたから、今笑っていられる……ありがとね」

優しい白銀の瞳にまっすぐ見つめられると、雄飛はさらに言葉を詰まらせた。

「あのさ鳳綺……忘れられなくてもいいんだ……他の人が好きでもいいんだ……」
「……雄飛?」
「大学を修了して、官史になって、お互い落ち着いたら……俺と――――」

雄飛が何かを言いかけようとした時、ふいにカタンと扉の音が聞こえた。
鳳綺は無意識に音のした方向に視線をずらす。

「え……っ?」

鳳綺の胸が大きく跳ね上がった。

見えたのは一瞬だった、だけど決して見間違えたりしない。
こんなにも心が痛くなる人は、ただ一人しかいない。

(あれは……あの後ろ姿は……!)

「……鳳綺?」
「っ、ちょっとごめん!!」

弾かれるように立ち上がり、鳳綺は乱暴に外に飛び出した。

目頭が熱くて眉間に皺を寄せた情けない表情だったけど、構わず人波を必死に探した。
周りの人が此方を見ているが、それらを振り切りながら左を向いて、さらに右を向き直す。
すると遠くであの後ろ姿が裏路地に入っていったのが見え、そこだけを一点に駆け出した。

すれ違いざまに人と肩がぶつかって、少しだけよろける。

「あ、すいませ…!」

謝罪さえも言い切らないうちにまた走り出し、道を左に曲がった。
これで見失ったらもう二度と会えない気がして、涙が零れ始めた。

「あ……あれ……?」

裏路地の先に鳳綺が追い求めた姿は見当たらない。
息が切れて肺が痛い。何より心が痛い。

路地は入り組んでいて、何処に行ったのかわからない。
鳳綺は手当たり次第に細い道を駆けた。
しかし走れども走れども、硬い壁しか目の前に現れなかった。

視界いっぱい目をこらすのにあの背中は見つけられない。
思い出すだけで胸を締め付けさせる、あの後ろ姿を。

「はっ……、……!」

体が言う事を聞かない。進みたいのに足が勝手に止まってしまう。
鳳綺は膝に手を付いて荒い呼吸を整えた。
乱れた黒髪が頬にへばり付いて、涙が手の甲に滴る。

「…っ……尚隆……!」

彼の名を必死に絞り出すと、急に背中に質量を感じた。
後ろからがっしりした腕が回り、優しく抱きしめられていた。

「よう……元気だったか?」

誰だかわかる低い声、軽い口調。
背中からでもわかる胸板、そして気が遠くなる程の甘い香り。

「尚隆……っ!」
「おっと、振り向くな」

鳳綺の首が腕と胸で押さえられて振り向く事が出来ない。
それでも髪には尚隆の吐息がかかって、思わず身を震わせた。

「な、何で……」
「俺は尚隆ではない。ましてや王でもない」
「何言って……」
「そうだな……風漢だ」
「……風漢?」
「何だ」

突然に名乗ったもう一つの名を彼に倣って口にすれば、返事が返ってきた。

「……どうして、此処にいるの?」
「気が向いたから」

どういう事なのか結局よくわからなかったけど、
会えたのだからもうそれでいいかと思えてしまった。

息を切らせた鳳綺の気色ばんだ表情が、次第に落ち着きを取り戻す。

「っ……もう、会えないと思った」
「俺は約束を違えたりしないぞ」

背後から低く笑う声がする。
この体勢はどうにも恥ずかしく、身をよじろうとしても尚隆の力で押さえられてしまう。

「……見たいか?」

鳳綺の行動を察した尚隆が腕を解放する。
しかしそのまま右手で鳳綺の両目を隠し肩を壁に押し当てる。

「!?しょう……りゅ、っ……!」

抗議の言葉は尚隆の唇で塞がれた。
隙間を狙うように侵入してきた尚隆の舌が、鳳綺のそれを絡め取る。
一年前とは違って激しくて荒々しい、泣きたくなるような熱さだった。
突然の出来事に鳳綺の思考が追いつかない。

「俺はそれほどいい王ではないのでな」

少しの空気を与えられたかと思いきや、再び唇を塞がれた。
辛くて、悲しくて、瞳を隠す手の間から涙が漏れる。

――忘れさせてくれない、諦めさせてくれない。

顔すら見せてくれないのに。
唇だけで満たされていく自分の体が悔しい。

彼は王なんだから。
決して交われない人、いえ……神仙。
なのにこんなにも近くにいて、そんな事もわからなくなってくる。

(どうして……)

「……また会おう」

ようやく顔を離されると尚隆は消えていったが、鳳綺は追いかけられなかった。

潤う心に痛む心。
壁に崩れかかった鳳綺には、尚隆の後ろ姿の残像を空に描く事しか出来なかった。










一方、一人取り残されていた雄飛は消えた鳳綺を追って裏通りを探し歩いていた。

鳳綺はいつもと様子が違っていた。
あんなに必死で、取り乱した顔を見るのは初めてだった。

ふと顔を上げると正面から一人の男が此方に歩いてくる。
薄笑いを浮かべたあの男、何処かで見た事がある。

記憶を辿ると思い出したのは大学の厩。
全身で嬉しさを表して走る鳳綺を追って盗み見た男。
記憶の中でもあの男は自信たっぷりに笑っていた。

「あんた……」

尚隆は挑戦的な目のまま雄飛の前で立ち止まる。

「あんたが、鳳綺の……」

雄飛の顔がみるみる険しくなったが、それを落ち着けるように平静を保つ。

「……鳳綺を知りませんか?」
「あぁ、おそらくあちらの方で泣いてるだろうよ」

尚隆は鳳綺のいる所を指さし飄々と答える。

「どうしてそんな事平然と言えるんですか……」

雄飛は鋭く睨み付けたが尚隆は気にもしない。

「俺が泣かしたからな」
「じゃあ何故傍にいてあげないんですか!」
「傍にいてもいなくてもあいつは泣くだろうよ。それに、慰めるのがお前の役目のようだからな」
「あんた……よくもそんな事っ!」

雄飛は尚隆の胸ぐらを思い切り掴んで叫んだ。

「何であんたなんだ……!何であんたなんだよ……!!
あんたがいるから鳳綺はいつも泣いてる!いつも苦しんでる!あんたのせいでっ……!!」

泣きそうな顔で怒りをぶつけても、尚隆は笑っているだけ。
それが余計に腹立たしかった。

「何が可笑しい!」
「それはあいつが俺を男として見ているからだ」
「何……!?」

尚隆の意図する事が雄飛には解らなかった。
しかし不快なのは変わりない。

「……鳳綺が欲しいか?」
「、え……?」

突拍子もない事を投げかけられ、掴んでいた力が弱まる。
尚隆は一切表情を歪ませる事もなく、軽々と雄飛の手を離した。

「欲しければここまで昇ってこい」

尚隆は唖然としている雄飛の横を抜け、小さく笑いながら雑踏に消えていった。

残された雄飛は、半ば放心状態で尚隆が指し示した方角に向かった。
そこに確かに鳳綺がいた。

だが鳳綺は壁に背中を預け虚空を見つめ、瞳からは銀の雫を絶え間なく溢れさせていた。

鳳綺……」

その姿があまりにも痛々しくて見ていられなくて、鳳綺の肩をそっと抱き寄せた。















尚隆は気怠げに一年籠もった執務室の椅子に腰掛けた。
何度も浮かぶのは必死で掴み掛かってきた男の剣幕。

「……俺ではどうする事もできぬ」

久しぶりに外へ降りて、以前に鳳綺と行った店に立ち寄ったのが悪かった。

鳳綺が自分以外の男と楽しそうに入ってくる。
自分がいるとも知らないで、そして自分以外の男と笑い合っている。
あんなに嬉しそうな顔をして。

胸が痛かった。
無邪気な笑顔、それは自分だけのものだと思いこんでいたのが腹立たしくてやりきれなかった。
尚隆の知らない鳳綺がそこにいた。

ざわめきのおかげで何を話しているか解らなかった。
それでも赤面しながら俯く男、それを穏やかに見つめる鳳綺
どんな会話をしているかは嫌でもわかってしまう。

見たくなかった。
他の男を見る鳳綺など、見たくなかった。

「何故こんなに執着する……」

笑ってしまう。
こんなにも自分の中に黒い感情が湧き上がっているのが。
何不自由なく彼女と接する事ができるあの男に、年甲斐もなく嫉妬した。

あんなにも見たかった白銀の瞳を直視できない程に。

王である自分に逃げた。
離れていく鳳綺を『王』を使って奪われまいとした、繋ぎ止めておきたかった。
必死に抵抗している自分が馬鹿らしい。

衣擦れの音と共に閑散とした机を離れ、窓から覗く雲海を見下ろした。
穏やかなはずの波は、尚隆の心を写すかのように激しく崖に打ち付けている。

「……あの男にくれてやるために、一年も我慢した訳ではない」

呟いた声は、誰に聞こえる事もなく雲海に消えた。











Back Top Next



ここからやっと折り返し地点。
まだまだ銀陽は続きます……(汗)