初めは、苦手だった。
小さな頃から密かに想いを寄せていた主の元に、政略結婚という形で城にやってきた。
自分の主を盗られてしまったから、苦手というよりむしろ嫌いだった。
それでもあの方は私に優しくしてくれた。
あの方の前でうまく笑えなくても突っぱねても、仲良くなろうとしてくれた。
そうしてふとした時、私は随分子供っぽい拗ね方をしていたと気付き自分を恥じた(確かに子供だったけど)
あの方をよく見てみれば好意が持てない理由は何もなかった。
今思えば、あの方も不慣れな地に嫁がれて不安だったんだろう、早く気付いてあげればよかったのに。
それからは、幼くして父母から離れた自分にはあの方が母のようだと思った。
時には姉妹のように同じものを見て笑い、同じ事をして楽しんだ。
主との間に子供が産まれても、変わらず私の事を慈しんでくれた。
美味しいお菓子があれば勧めてくれるし、桜が咲けば呼んでくれた。
悲しい夜には一緒に添い寝をしてくれたりもした。
あの人と同じく、私はあの方にも心から尽くそうと誓った。
あの桜のように可憐に微笑むお市様には、ずっと笑っていてもらいたいと。
あの人を幸せにしてほしいと。
あの方自身も幸せになってほしいと。
誰よりも温かく包み込んでくれるお市様を、お守りしたいと。
――「綾葉、貴女がいてくれてよかったわ」――
桜の下で三人………一緒に花見をした日々が、ずっと続くようにと。
15・賤ヶ岳の戦い-桜色の日々-
お市様はあの頃とほとんど変わらない姿で、敵を塞ぐようにして立っていた。
色素の薄い髪を持った主の隣で笑う、あの時のまま。
「……お市、様…………どうして、ここに……っ!」
綾葉は馬から降りて、目の前の人物を確かめるように一歩一歩近づいた。
お市も相手が綾葉だとわかると目を大きく見開いて、そして微笑んだ。
「本当に綾葉?ああ、大きくなって……」
「……お会いしとう、ございました…っ!」
互いの持つ武器の事も敵同士だという事も、ここが戦中だという事も忘れて、
顔を歪ませたまま綾葉は地に頭をこすりつけるようにして跪いた。
気がついたら体が勝手に動いてしまっていた。
ずっと、ずっと……お市様に謝りたかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい!!」
貴女の大切な方を死なせてしまった。
「何を謝るの?あれは全て定めだった……詮無き事」
「主を置いて……私が、生き残ってしまいました………!」
「当然よ、それが私とあの人の願いだったから」
お市は変わらず憂いを帯びた笑みで優しく囁いた。
「ここにいるという事は、貴女は秀吉の軍にいるのね」
「…………はい」
「それを咎めはしないわ、決めたのは貴女だから」
綾葉は今までの行いが許された気がして安堵したように顔を上げた。
だけどお市はそれ以上笑わず、武器を構えた。
「――だから、決着をつけましょう。武器を取りなさい、綾葉」
「え…………お市、様?」
目の前で、母のような存在だった人が自分に武器を向けている。
信じられなかった、現実が信じられる訳がなかった。
「そうでしょう?今の貴女と私は敵同士……ならば戦うしかないのよ?」
「わ、私は……戦いたくありません!」
戦う為に生きてきた訳じゃない。
現に今、この右手は一向に動こうとしない。
「詮無き事を。これは戦……生き残りたいのなら、戦いなさい」
「そんな……確かに今は敵同士という立場ですけど、私は元はお市様に仕えていました!
その貴女と何故戦わなくてはいけないんですか!?」
ただ、互いに違う道を歩んだだけで私怨などある訳がない。
数奇な運命が巡り巡って、こういう形で再会してしまっただけだ。
だけど、お市様は首を横に振り続けるばかり。
あの方は昔から、この世を悟っているかのように儚い目をしていた。
「それでも貴女はその道を選び、私はこの道を選んだ。
戦で対面してしまったからには、戦う事が私達の運命……」
「……お市様は…………私と戦うの、嫌じゃないんですか……?」
言ってしまってから……聞き分けのない子供のようだと思った。
「詮無き事……こうやって、あの時も私は浅井に武器を向けた……」
「!……それは、信長様が見ていたからでしょう!?」
小谷城での戦いの時、敵側にお市様がいた事は誰かから聞いた。
でもお市様は元は織田の人間で、無事に織田に戻る為にはそういう事も仕方ないのかもしれないと納得した。
お市様のお心を察すれば辛くない訳がない……複雑だったんだ、あの頃も。
そうですよね、お市様?だから…………今は、もう誰も見ていませんから……
お願いですから……私に武器を向けないでください……
「今はもう……お市様が戦う必要なんて、ありません……だから―――!」
「…………貴女には悪いと思ってはいるわ……だけど……」
お市様はスッと、泣きそうな顔で鉛色の空を仰いだ。
「……私はもう、あの人に武器を向けてしまった………………」
最愛の人に武器を向けて……平気な訳がない。
「向けてしまったのよ、あの人に……ならばもう、誰と刃を交えても同じ事……」
「…………お市様……」
どんな辛い事があっても、あの方はいつも動じずに受け入れようとした。
あの方は確かに浅井の正室であったけど、織田の誇りは常に持っていた。
世の無常を悟っているお市様はしたたかで何事にもはしたなく反発したりはしなかったけど、
それは同時にとても気高い性格だという事を表していたと思う。
あの人に織田に帰れと命じられた時も、お市様は泣き言も言わず静かに戻って行かれたのに。
そのお市様が、悲痛に顔を歪めておられる。
「嫌です……それでも、お市様とは戦いたくありません……!!」
それならばいっそう、お市様にはこれ以上辛い思いはさせたくない。
「……綾葉――」
「嫌です!!!!」
静かに諭すお市を遮るように、綾葉は声を張り上げて叫んだ。
それは今まで出した事のないような声量で、その悲しい響きは戦場に虚しく反響した。
「嫌です!!こんな事の為に、今まで生き残ってきたんじゃない!」
過去に泣きすぎて枯れてしまったと思っていた涙腺が、熱くて震えている。
「貴女と戦う為に人殺しの技を習ったんじゃない!」
「……そうね、貴女の槍はあの人のだったわね……構え形が、よく似てる」
「……!!」
麻痺したように感覚のなかった槍を持つ手がビクッと痙攣した。
どうして……こんな運命になったの……?
どこかで野垂れ死んでいたのなら、お市様と対峙する事なんてなかった。
三成様と出会わなければ……こんな事にはならなかった。
「……お市様、私と共に来てください」
綾葉は自身を保つように深呼吸し、まっすぐお市を見つめた。
そうだ、お市様を助ける為に来たんだ。
「この戦、おそらく秀吉様が勝ちます。柴田殿といたらきっとお市様も無傷ではいられません!
秀吉様なら寛大な処置をしてくださいます!私と共にお逃げ下さい!」
そう、武器ではなく貴女の手を取る為にここまで来た。
だけどそれでも、お市様は首を縦に振らなかった。
「逃げ落ちて、どうしろと言うの?」
「まだお子様もいらっしゃいます!皆や、私の為に生きてはくださいませんか?」
「……あの子達は大きくなった。貴女のように、1人でも生きていけるわ」
そんな……初めから柴田軍と共にするような言い方をしないで。
「嫌です……っ!きっと……あの人もそれを望んでいるはずです!」
「……もう、生き長らえる気はないわ」
お願いだから、私の手をとって下さい……お市様!
「そんな……っ、お願いです、お市様には生きていてもらいたいんです!
今は辛いかもしれませんが……いつか、いつかお心は癒され――」
「貴女は、癒された?」
「…………っ!!」
ハッと息を呑むのが自分でもわかった。
癒されていたら、この右手が震える訳がない。
癒されていたら、戦いをやめ誰かにでも嫁いで家庭を築いていただろう。
でもできなかったから、こうやって今でも戦に生きている。
この十年間、できる訳がなかった。
あの人を忘れる事など……できる訳がなかった。
「あの人と離れて……兄上にはよくしてもらった……だけど、平穏など一度もなかった」
それは、私とお市様にしか共有できない……光を失った者の悲しみ。
笑って死んでいった最愛の人を忘れられない気持ち。
あの光のような人からもらった思い出は数えきれるようなものじゃなくて。
そして思い出として誰かに簡単に話せるほど軽いものでもない。
私とお市様にとって、あの人は自分の拠り所であり………全てだった。
誰よりも父らしく、誰よりも男らしく……そして、誰よりも戦人だった。
その他の世界が灰色に見えるほど、彼の笑顔には色彩が溢れていた。
「もう、よいでしょう?」
「…………………………」
それを言われてしまうと、何も言い返せない。
「勝家は再婚である私に対してもよくしてくれた。少しばかりかは平穏も与えてくれた。
せめてもの礼として……私は、勝家と命運を共にする」
どこか……自分と似ていると思った。
大切な人に先立たれ十年間生き延びてきたけど、それは決して幸せと呼べるものではなかった。
その末にようやく現れた主、彼でもう最後にしようと決めた。
様々な理由に加え……それは、この無常の世に疲れたからでもあった。
「……勝家が討たれた時が、私が死ぬ時……それが私の定め」
「でも……嫌です……私は、貴女を……っ!」
「それなら藤姫、私と一緒に果てる?」
「え……っ」
一瞬の迷いが生まれた。
――どうしてあの時、私は直ぐにでもお市様と一緒に死ぬと答えられなかったのだろう。
――どうして……一緒にあの人に会いに行くと、言えなかったのだろう。
迷うように視線を彷徨わせた、それだけでお市様は全てを悟ってしまった。
……そう、私には……もう命を賭けて守ろうと決めた主がいる。
最後の主が死ぬまで……私は死ねない。
「ふふ……貴女はもうしっかりと生きている。己の道を、もうわかっているでしょう?」
すっと、お市が綾葉の頬をなでた。
「綺麗になったわね綾葉……貴女はもう、立派な藤の花」
「……お市、様……っ!」
どうして、貴女を見捨てようとしている私にそんなに優しいのですか。
だって、これからしようとしている事は過去に私が誓った事を違えるに他ならないのに。
「そんなに優しくしないで下さい……貴女の為に死ねない私を、咎めてくださいよ……っ!」
「咎める訳ないでしょう?貴女が自分の意思で自分の為に生きる……それがあの人と私の願い」
お市は綾葉の震え続けている右手に触れた。
「もう、何事にも囚われず自分の為に槍を振るいなさい。
あの人が教えた槍は、人を殺すものじゃない……未来を切り開く為のもの」
その言葉が体に染み渡るように、槍を持つ手が自然と感覚を取り戻す。
「信頼できる人がいるならば、その心を開きなさい。
貴女は甘える事を知らない……もっと、その顔で、その口で、気持ちを伝えなさい」
最後とばかりに優しい言葉ばかりが綾葉に降り注ぐ。
そうして、お市様はあの桜のように……花のように微笑んだ。
「先に逝っているわ。だけど貴女は幸せになりなさい、藤姫」
ツゥ―――と、静かに涙が溢れた。
「ごめんなさい…………ごめんなさい……っ!!」
一緒に果てられなくて、ごめんなさい。
大切なものが2つあるだけなのに……どうして、どちらかしか選べないの?
――「守る為には斬らなければならない、貫く為には歪ませなければならない」――
どうして……大切な者を守る為に、大切な者を斬らなくてはいけないのですか?
浅井家家臣であったのなら、私は最後までお市様を選ばなくてはいけないのに。
貴方の最愛の人を守らなくてはいけないのに。
このままでは、貴方の最愛の人を見捨ててしまうのに。
ごめんなさい……お市様……――様…………
「いいのよ綾葉…………これは全て定め……私がここで果てる事も定め…」
「……嫌です……お市様……っ」
その綾葉の涙ながらの言葉は、もう既に力なく呟くだけだたった。
「お市様!!」
そこへ総大将だと思われる大柄な男が走ってきた。
ボロボロの衣装、所々に見える赤い傷……彼が、柴田勝家だった。
その姿を見れば羽柴軍が勝っている事は明らかだった。
彼は私を見ると殺気をまとわせて斬りかかってきたけど、
お市様の静止の声に、やむなくその武器を降ろした。
「ここはもう落ちます!早くお逃げください!」
「…………わかったわ」
「ぁ…………っ!」
スッと私の手を離したお市様。
突然感じた氷のような冷気に綾葉は我に返り、混乱した頭の中でただ一つの真実を見つけた。
……お市様が、行ってしまうという事に。
「綾葉!!」
そこに聞こえた、今の主の声。
振り返り、鋭い目の主が驚いたような顔をしているのを見てから、ようやく私は泣いていた事に気付いた。
泣き顔を見られてしまった。
「お前……っ……貴女は、お市様……!」
三成様は私の傍にいたお市様をも見つけてしまった。
ああ、やめてください三成様……お市様を斬らないで……!
「み、三成様……!」
「…………お市様……」
だけど三成様は武器を構える事もせず、スッと姿勢を正すとお市様を見据えた。
「……近江の雄、浅井家がご健在であれば……近江の出である私はあなたに仕えていたでしょう……」
「詮無き事を言う子、されど……」
三成様は、お市様達を逃がしてくれるのかもしれない。
……おそらく、ここで逃げてももう逃げ道がない事もわかっていたのだろう。
お市様は柴田勝家の馬に乗り、かつての近江の正室としての顔で振り返った。
「私が死んだら、あとを頼みます」
「………………」
お市様は、私の主が三成様だという事をわかっていたのだろうか。
今となってはもう、確かめる術はない。
「綾葉……貴女は、幸せにね……」
「…ぁ…………お……市……さま……っ!」
自分でこの道を選んだ、共に行かない事を選んだ。
小さくなっていく、桜色の姫の背中。
あの人が愛した、本当の藤の姫。
弱々しい手を伸ばしても、あの日々は戻ってこない。
「…………ぃ……や……っ!」
涙が止まらない。枯れた感情が溢れて、止まらない。
――「………綾葉です、よろしくおねがいします」
「どうした綾葉?いつもの元気がないぞ?すまないな市、綾葉は緊張していてな」
「いえ……よろしくね、綾葉」
――「はい綾葉、貴女にもお裾分け」
「え?……いえ、主人のものをいただくわけには、まいりません……」
「いいのよ。貴女と私の、お友達の証としてね?」
「…………お市さま……」
――「お市さま…………何だか、母上のようです」
「ふふ、嬉しいわ……私にとって、貴女も本当の子供のように大切よ?」
「本当、ですか?あ、でも親子という年でもないので、姉上にしておきます」
「ありがとう綾葉。でも貴女は、もう少し誰かに甘えてもいいのよ?」
「…………いいんです。今で十分、幸せです」
――「見てくださいお市様!桜の蕾がもうこんなに出ています!」
「そうね、もう冬も終わり……温かくなるわ」
「桜が満開になったら、また――様と一緒にお花見しましょうね!」
「ええ……また、貴女の作るお団子が食べたいわ……」
――「この戦の世……私は貢ぎ物として浅井家に嫁いだ。
だけど、こんなに毎日が穏やかで、優しくて……幸せすぎて怖い」
「……お市様?」
「――様と貴女が温かく迎えてくれたから……私は、全てが愛おしい」
―――「綾葉、貴女がいてくれてよかったわ」―――
「い、いやですお市様ぁ!!」
綾葉は走り出していた。
距離など縮む訳がないのに、必死に馬を追いかけた。
「私を……独りにしないで下さい!!」
次第に離れていく馬上から、あの時と変わらない可憐な姫が振り返った。
「何を言うの……私がいなくても、あなたは……生きてきたでしょう?」
「ち、違います!……私は……私、は……!!」
「可愛い藤姫……私とあの人の姫……」
私の最愛の人が愛した……唯一の姫。
「大丈夫よ……貴女がどんな選択をしても……私とあの人だけはずっと貴女の味方……」
「お願いです…………お願いですからぁ!!!」
私の最愛の人が愛した……唯一の妃。
「…………離れていても……貴女を愛していたわ、綾葉……」
「!!!!」
ついに馬は走りを速め、綾葉はその場に蹲った。
「お市さまあああああ……っっっ!!!!!!!」
―――どうして貴女も、同じ事を言うのですか?
「…………よかったのですか、あの者は?」
「ええ……彼女は、私の最後の希望ですから……」
お市は笑いながら静かに座っていた。
「それより、貴方はよかったの?」
「はっ。この柴田勝家、あのお方のため死ねるなら、本望でございます……」
「…………そう……」
このような状況になっても波風立たないお市に、勝家は恭しく跪いた。
「…………お市様、申し訳ありませんでした。貴女までこのような事なさらなくても……」
「詮無きこと…………いいのです……最後に、最愛の姫に会えたのだから……」
火が、既にこの部屋にまで燃え移っている。
赤い世界の中、今の夫と見るのは炎にまみれた襖障子。
外では、勝家を慕っていたという男が何かを叫んでいる。
もう、それすらも聞こえない。
「…………それでは……失礼します……」
「…………勝家、ありがとう……」
勝家の剣がずぶりと腹に差し込まれる。
周りは既に赤い炎、そして自らの体にも赤い血。
「やっと……あの人のもとへ逝ける……」
遠のく意識の中で見えたのは、笑顔で名を呼ぶ……色素の薄い髪の光。
「……なが……ま…っ…さま………」
―――北ノ庄城へと退却した柴田勝家とその妻・お市は、自ら城に火を放ち、そうして果てた。
これにより織田信長の後継者は必然的に羽柴秀吉に決まり、その影響は後世にまで及ぶ。
1583年・賤ヶ岳の戦い
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暗くなりました、果てしなく暗い。
終わりました……この話はまとめるのにホント苦労しました。
お市様も可哀想な人ですよね。無双1では妙に明るかったけど(笑)
あうぅ……お市ルートで号泣したのは私です……orz
次回からしばらくは一応穏やか城生活。
そろそろ進展してもらわないと……ですね。