04




今度こそ本当にやらかした。
知らない人と一晩を過ごしてしまうなんて有り得ない事だった。
好きでもない人と寝るなんてはしたないと、少し前の自分は本気で思っていたのに。

頭を抱えていると星司が「どうかしたか?」と首を傾げる。
何でもない、と美弥は平静を装って笑ってみせた。
此処で知り合った人と色々あっただなんて口が裂けても言えない。

(だけど、不思議だったな……)

この場所に居座るようになって、他のカウンター席に来る男性客は何人も見てきた。
なかには美弥に話しかけてくるような人もいたけど、全く興味すら湧かなかった。
「一人?」と誘いのような言葉を囁いて近付いてきても、お願いだから放っておいてと思っていた。
別に自分はナンパ待ちで此処に座っている訳ではない。
いくら酔いが回っている時でも、それに乗ろうと思った事はないのに。

あのニット帽の目付きの悪い彼だけは、美弥の視界に入った。
一瞬見えた空虚な目を自分と重ねてしまい、思わず話しかけてしまった。
ナンパよろしく近付いて寄りかかって、しまいには体さえ重ねてしまった。

どうして彼にはそうしてしまったのだろうと、自分自身でも謎だった。
カウンター席をぼうっと眺め、時々興味ありげに見てくる男性客の目を掻い潜りながら考える。

きっと、彼には下心というか、嫌な甘さがなかったからかもしれない。
それはつまり美弥に一切興味がなかったのだろうと思う。

だから自分は、勝手な連帯感を抱いた。

「ねえ、前に来たニット帽を被った人って来てる?」
「あの美弥ちゃんが近寄って行った人か?いや、あれ以来は来てないな」
「そう……」

星司は知らないが、あれとは美弥と一晩を過ごした日の事だ。
その日から来ていないという事は、美弥と顔を合わせる気がないという事だろうか。
一度抱いたからといって知らない女に粘着されるのを避けているのかもしれない。
大切な人を失くしているとしたら、余計にそうされたくないだろう。

「どうかしたか?」
「ううん……私が迷惑かけたからもう来てくれなくなったかなって……ごめんね、折角のお客さん減らしちゃって」
「いや……そんな事は気にしなくていいんだけどな」

きっと迷惑だっただろう。
彼はキスを避けたというのに、流れで美弥から彼の唇を塞いでしまった事もきっとルール違反だった。

別に、もう一度会いたいという事ではない。
ただ、此方の勝手な感情で全然関係ない人を巻き込み、我が儘に付き合わせてしまった事が申し訳ないのだ。
この店の新規客になってくれる人だったかもしれないから、星司にも悪い。

あれから結構な日にちが経ち、美弥は毎日とはいかないがそれに近い日数を此処に来ている。
だけど一度も顔を合わせないという事は、彼はもう此処には来ないのかもしれない。

もし次に彼に会うような事があったら今度こそちゃんと謝って、触れたりしないように冷静でいようと決めた。









日本に潜伏し、単独行動をしながらもFBIの仲間と連絡をとり、組織を探っている間に結構な日数が経った。
またちょうど目に入った適当なバーに入り、ウイスキーを転がしていると。

「あの黒髪の人、かっこいいんじゃない?」

近くにいる女達のそんな会話が耳に入る。

「あの、一人ですか?一緒に飲みませんか?」

そして上目遣いで寄ってきた。
此方が何も答えずとも、どこに住んでいるのか何をしているのかなど根掘り葉掘り聞いてくる。
気が向けば相手もするが、基本は返事をするのも面倒だと思う。
今日はその気になれず、「他をあたれ」と女達を追い払う。

そういえば、あの時の女は何も聞いてこなかった事を思い出した。

たまたま入ったバーで、ただ体温だけを求めた女。彼女は名前すら聞いてこなかった。
唯一訊ねてきたのは、寂しいのかという問いだけ。

詮索されるのも好きではないが、彼女に関しては隣で体重をかけられても不快に感じなかった。
自分と似ていると言った彼女の目は、此方を見ているようで見ていなかった。

同族意識など御免だが、どうしてか彼女の望みは何となく理解できたのだ。
親しい者にほどこの空虚感は伝えきれないもので、全く知らない人間は端からこの絶望感がわからないだろう。
だから放置するのも気が引けたし、寂しいと言われれば抱いた。

肌が絡み合うような熱を求めたのだ、失ったのは恐らく男、恋人だろうと予想できる。
恋人のいない家に耐え切れず、酒を煽って正気を失いたがっている。

それから、両頬を掴まれキスをされた。
好き合ってもないからそれは必要ないだろうとしなかったのだが、わざわざ手を伸ばして触れられた。
求めているというよりは、まるで慰められているようだった。
此方が主導権を握っていたのに、あの瞬間は受け止められているような気がした。

憂さ晴らしをした女とは基本的にその場限りだ。
後腐れのない割り切ってくれそうな女ばかり選んでいるし、変に粘着されたくもないのだが。

彼女は、今もあのバーで悲嘆に暮れながら酔い潰れているのだろうか。
ふと、そんな事を思った。


数日後、気まぐれであのバーに行ってみると同じ若いマスターに出迎えられた。
前回と同じ席に座り視線を巡らしてみるが、いるだろうと思っていた女の姿は見えない。

「今日はいないのか?」

誰とは言わなかったが、いつもの場所を顎で示してみせれば青年が苦笑する。

「……今日は多分、来られないと思います」
「…………」

悲しそうな、訳知り顔。
別に予定があるとか、そういう単純な理由ではないという事を物語っていて、精神的な何かを悟った。






*****



墓石に手を合わせても虚しさしか残らない。
ここに骨はあるのかもしれないけど、どれだけ手を合わせた所であの人に会える訳でも話せる訳でもない。
両親の計らいで家族のように扱ってもらっているけれど、まだあの人の苗字をもらえなかった自分は一緒の墓には入れない。
いや、優しい人達だから頼み込めば入れてもらえるかもしれないけれど、そんな主張をする気力はない。

「今までありがとうね」
「いえ……」

あの人にどこか似ている女性が美弥に笑いかける。
お互いに辛いはずなのに、いつも美弥の事を気遣ってくれる。それが何だか申し訳ない。
此処にはいつでも来ていいのだと、言ってくれる。

「今は何も考えられないと思うけど……美弥ちゃんは、幸せになっていいんだよ?
いつかこの先、そういう気持ちになれたら、遠慮しなくていいからね?」
「…………」

幸せって何だと思った。
美弥の幸せは、あの人と一緒に生きる事だったのに。
あの人がいなくなったら、もう幸せになんかなれない。

他の誰かを好きになるなんて有り得ない。
もし仮に誰かを好きになったとしたら、自分はあの人を捨てて違う人を選ぶというのか。
そんな事ができる訳がない。何より自分が嫌だ。

幸せなんかどこにもないのに、彼の母親は幸せになれという。
わかっている、気遣いの言葉だとはわかっているけど、涙が止まらない。

「……っ」

喪服を脱ぎ、早々に東京に戻ってきたものの、自宅へと足が進まない。
地元に留まりたくなかったから逃げるように電車に乗ったというのに。

だけど飲みに行く気すら起きない。
誰かに助けて欲しいと思うのに、美弥を知っている人間には会いたくない。
気遣ってくれる人達の優しさが辛いのだ。
有り難いとは思っているのに、それが余計に現実を突き付けてくるから苦しくなる。

それに、もし不用意にバーに行って酒に溺れている時に、例えば知らない男性に声をかけられでもしたら。
「一人?」と、自分が独りである事を再確認させられたら、その場で確実に泣き叫ぶ自信がある。

誰もいない家はもっと嫌だ。音も体温もなくて、何もない空間は自分をおかしくさせる。
だからどこにも行けない美弥は近くの公園のベンチで意味もなくただ呼吸を繰り返しているだけ。
このまま何もせずにいたら死ねるのだろうか、そんな事すら考えるけれどきっとこれくらいじゃ死ねないのだ。

こんな現実に耐えられない。
どうやって生きていたのかすら、もうわからない。
星も見えない暗闇の空だけが、自分の心と同調してくれているようだった。

足音が聞こえる。

興味本位で近付いてくる音もあったが、そのどれもが美弥にとっては雑音だった。
だけど今回は揺るぎない足取りで、そしてすぐ近くで音が消えた。
人の気配があるのに、喋る事も動く事もしない不思議な気配。

闇を仰いでいた視線をそちらにずらし、見えた人影に驚くというより笑えてしまった。

「……どうして、貴方には見つかっちゃうのかなぁ……?」

名前も知らない、ニット帽を被った全身ほぼ黒一色の男性がそこに立っていた。
思えば、慰めて欲しいと言った時もこんな風に美弥を見ていた。

偶然なのだろうか、いや、何か意図があったのだとしてもどうでもいい。
お互いの事を全く知らない、だけど誰かを失った傷だけを共有している人がそこにいる。

「どうして、私に構ってくれるの……?」

今回は道端ではない。公園の中のベンチなのだ。
何も言わず煙草を燻らせているが、美弥にあえて近付くという意志がなければ彼はここには立てない。

美弥がふらりと重い体を持ち上げて、勝手に浮かぶ笑みのまま首を傾げれば、彼はゆったりと白い煙を吐く。

「しいて言うなら、同じ目をしていたからだ」
「……うん、それでもいい……ありがとう」

彼にとっては迷惑かもしれない同族意識。
だけど彼はまた美弥を慰めてくれる気で、そこにいるのだ。

まるで天からの助けのようにも思えて、美弥はゆっくりと彼に抱き付いた。

「独りは嫌……」

じんわりと伝わってくる温かさに安心する。
そうして自分はまた、知らない人に逃げ出すのだ。

彼が少し身じろいで携帯を取り出すのを見て、美弥は慌てて止めた。

「あ、えっと……よければ、ウチ来る?」

前回のホテル代もいつの間にか払ってもらっていたから、ホテルは申し訳ない気がしたのだけど。
代案でいきなり家に誘うなんて、なんて緩い女だと思われたかもしれなくて、美弥はすぐに取り消そうとした。

「ごめん、よく知らない女の家なんて来たくな――」
「別に構わん」
「…………」

特に不審な顔もせずに了承されたので言葉をなくしてしまった。
だけどそういう所もなんだか自分に似ている気がして、美弥は苦笑する。

公園を出て、少し歩いた先にある自宅マンションに案内する。
エレベーターに乗っている間も二人は無言だったが、今回はあまり気にならなかった。

「どうぞ」

カチャリと音を立てながら開錠させ、知らない男性を部屋に招き入れる。
引っ越ししたばかりで半分くらいが段ボールに入ったままの、飾り気のない空間。

突然だったので片付いていない部屋をその場で綺麗にしながら彼を案内する。
そこまで来て美弥は「あ」と、とある事に思い至る。

「ねぇ……聞いてもいい?」
「何だ」
「貴方の事、なんて呼んだらいい?」
「…………」

彼は少し考えるような表情をして、ポツリと口を開く。

「……シュウ、だ」
「……うん、ありがとう」


――本名かもわからない。漢字も知らない。
だけど、それでいい。私達は、それだけでいいのだ。


目を細めて頷くと、美弥はシュウの首に腕を絡ませた。











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