03
いつものバー、いつもの席で、美弥は前回の失態を反省していた。
何故あんな事をしてしまったのだろうと内心で項垂れていると、目の前に皿が置かれる。
「はい、今日はサンドイッチな」
「いつもありがとう」
白いパンの間に体に良さそうな厚焼き玉子が挟まれていて美味しそうだ。
ほぼ毎日仕事帰りに酒ばかり飲んでいる美弥を見かねた星司が、夕食代わりの軽食を出してくれるようになった。
店には本来つまみ程度はあっても大した軽食なんてないが、美弥の為にわざわざ何かを作ってくれる。
家に帰ったって碌な食事をしない事を彼はよく知っていた。
食べてくれる相手がいないのに手の込んだ食事を作る意味などないと思っているのは本当の事だ。
メニューにはないので、あまり他の客に見えないようにしながら小さく頬張る。
それを食べきると、半ば強制的にアルコールを胃に流し込む。
自分が酒に強くない事は知っている。
だけど、いくら酔ってたとはいえ知らない人にしなだれかかるなど、いい迷惑だ。
しかも今思えばあの人、結構目付きは悪かったし怖めな人相をしていた気がする。
美弥がいなくなった後の事を星司に聞いてみれば、特に怒ったりはしていなかったようだが、何もなくて本当によかったと思う。
彼も大切な人を失くしたのか、なんて勝手に決めつけて、あまつさえ親近感を覚えて訊ねてしまうなんて。
他にも理由があるだろうに、本当に無遠慮だ。
もし仮にそうであったとしても、聞かれたくない人だっているだろう。
というか、放っておいてほしいと美弥ですら思う。
(同情なんて、いらないのにね……)
気遣われたり優しくされたって虚しいだけで、自分もそれをされたくないというのに。
誰かの傷を抉ってしまったかもしれないと思うと非常に心苦しい。
はあ、と溜息を吐いていると、新たな客が来店する音がした。
タイミングが良いというか悪いというか、それは今の今まで美弥が考えていた人だった。
「あ……」
彼は目線だけで美弥を一瞥すると、前回と同じ場所に座った。
此方の事を気にする素振りもなく、持ってきた煙草に火を点けている。
気まずいし少し怖いが、それでも謝らなければと美弥は居住まいを正す。
「その……先日はすみませんでした。だいぶ、酔っていたみたいで……」
恐る恐る話しかければ男の鋭い目が此方を向く。
あの時の空虚な目が嘘のようで、どうしてこんな人に寄りかかってしまったのだろうと過去の自分を呪いたくなる。
「今日は一人でもいいのか?」
「…………」
男は怒るでもなく、前回の事を揶揄して口角を上げた。
迷惑がられていないのはよかったが、どうにもばつが悪い。
何か答えなければと思うのに、大丈夫ですとは嘘でも言えそうになくて、美弥は苦し紛れに「頑張ります」と返した。
彼は小さく笑っただけで、それからは前のようにロックグラスを傾けている。
さて、どうしようかと思った。
このままいつものように潰れるほど飲むのはどうも気が進まない。
今は正気を保っていられるが、酔ってしまったら何をしでかすかわからない。
折角謝る事ができたのに、また彼に迷惑をかける訳にはいかないのだ。
それに、彼も一人になりたくてこの店に来たのだろう。
美弥が毎回いては邪魔だろうと思い、今日は早々に店を出る事にした。
「あれ、もう帰るのか?」
「うん、明日早いから……」
居た堪れなくて逃げたと思われないような適当な言葉を星司に告げ、美弥は店を出た。
狭い店内なので恐らく彼にも聞こえただろう。
ひやりとした空気に晒されながらしばらく歩き、店から離れたあたりで立ち止まる。
さあこれからどうしようと少し途方に暮れていた。
あの寒々しい部屋に帰るには、まだ自分は酔いきれていない。
かといって違う店に入り直す元気もなく、美弥は当てもなくトボトボと帰路を歩む。
途中にあるコンビニで強めの酒の缶をいくつか買えば、手提げたビニール袋がガサガサと音を立てる。
何だか足取りまで重くなった気がして、座れそうなレンガ造りの花壇を近くに見つけ、隅で小さくなって腰を降ろす。
外で缶の酒を開けるのは初めてだ。
人の往来はあるし、こんな所で女が一人で酒を飲んでいるなんてきっと目立つだろう。
だけど酔わせる事が最優先だなどと思いながらプルタブを上げれば炭酸が抜ける音がする。
アルコールのキツさに顔をしかめながら、夜の空に息を吐く。
真っ暗な闇を仰いで、ぼんやりとただ呼吸をする。
このまま空気に溶けてしまえばいいのにと、いつもそう思う。
「明日は早いのではなかったか?」
え、と振り返ると、バーで会ったニット帽の男が近くに立っていた。
もうそんなに、彼が店を出るくらいの時間が経っていただろうか。
だとしてもどうしてこんな所にいるのだろうと目を見開いていると、彼は咥えていた煙草を指に持ち替える。
もしかして逃げ帰ってきた事がバレてしまっただろうか。
それとも、前回の失態について言いたい事でもあるのだろうか。
「家に帰りたくないのか」
「…………」
彼は感情の読めない顔で、そう言った。
彼の意図はわからない、だけど美弥はもう考える事をやめた。
「……帰りたくない。誰もいない、独りきりの家なんて、嫌」
言葉にすれば、どうしてか笑えてきてしまう。
少し前までこんな生き方してなかったはずなのに、酔いたいが為に外で酒を煽っている自分が滑稽だった。
彼は顔色一つ変えずにそこに立ち続け、淡々と言葉を紡ぐ。
「男に振られでもしたか」
「……その方がマシだったかもしれない」
そうであったならきっと、こんなに苦しくなかったのかもしれない。
いや、もし振られたとしてもこんな風になっていたかもしれないが。
「もういない、何処にもいないの。私だけ、取り残された」
「…………」
聞いたわりには取り繕う事もなく何をするでもなく、美弥から少し距離をあけたまま白煙を見つめている。
きっと、面倒だと思ってはいるが捨て置く事もできなくて困っているのだろう。
「……優しいね。私なんか、置いて行っていいのに」
「わからんぞ。弱っている所に付け入ろうとしているのかもしれん」
そういう人はそういう事言わないのではないだろうか。
警戒心を持てという意味なのかもしれないが、今の美弥にはあまり効果がなかった。
自分の身なんて正直どうでもいいのだから。
ぼんやりと彼を見つめて、美弥は投げやりに笑う。
「……それとも、貴方が慰めてくれるの?」
彼にもたれかかって、久しぶりに他人の体温に安心した。
違うとわかっているのに、あの温度だけは離れがたいと思った。
彼を見ていると、またそれを頼んでしまうかもしれない、だから店を出たのに。
温かかった彼がいる。
また触れたいなと思っている自分がいる。
今はそんなに酔っている訳ではないから、この気持ちは酒のせいではなく自分の衝動だという事だ。
表情を動かした彼は少しだけ目を瞠り、それから大して考えている様子もなく口を開く。
「それを望むのなら、俺は構わんが」
「…………」
冗談で言ったのに、まさかそう返されるとは思わなかった。
驚いて固まって、だけど救いの手を差し伸べてくれる人から目が離せない。
――助けてほしかった。
何でもいいから、誰でもいいから、現実を忘れさせてほしかった。
その誘惑が、美弥の目の前に提示される。
「どうする?」
「、…………うん……お願い、します」
深く考えるよりも先に、導かれるように思わず頷いていた。
美弥の返事を聞くと、彼は携帯を取り出して何かを操作する。
「行くぞ」
ポケットにしまうとスタスタ歩いていく。
一瞬躊躇い、だけど置いていかれないように後を付いていくと、彼は近くにあるホテルに迷わず入っていった。
名前だけは聞いた事がある、結構いい値段のする上質なホテル。
恐らくさっきの操作はここの予約をしていたのだろう。
安くないと思わせる雰囲気の良い落ち着いたフロントでチェックインを済ませ、エレベーターに乗る。
(どうしよう)
内心で動揺している自分がいる。
今まで知らない人と一晩の何とかなどした事がなく、どういう振る舞いが正解なのかわからない。
そもそも勢いだけでここまで来てしまったが、よかったのだろうかと急に焦っている。
隣には、余分な事は全く喋らない寡黙な男性。
きっとこういう場も慣れているのだろう。
もしかしたら、ちょうどいい手頃な相手でも探していたのか。
そうであるなら、明らかに弱っていた自分は彼には好都合だっただろう。
柔らかい絨毯が敷かれた廊下を歩き、カードキーを使って部屋に入る。
「シャワー使うのか?」
「あ……うん」
本当に知らない人とするのかと、まともな自分が言っている。
だけど此処で引き返す気はなかった。
どうにでもなれ、と美弥はシャワー室に入り、禊のように体を洗った。
あまり時間をかけたら気が進まないと思われるかもしれないと、さっさと済ませて出た。
彼は何も言わず入れ違いにシャワー室に入っていった。
ベッドで待っているのは恥ずかしいので傍にあるソファに小さく座り、持ってきていたコンビニの酒を全て開けて飲み干した。
良い感じに頭がフワフワしていると、シャワーから出てきた男が何故か小さく笑った。
「それで?どうして欲しい」
どこまでも美弥の要求通りにしようとしているのだろう。
律儀なのか、慣れなのか、余裕なのかはわからないが。
美弥は緊張しながらも立ち上がると、彼の目の前に立つ。
どうしたかったのか、それは自分の本能が一番よくわかっている。
そっと手を伸ばして彼の首に腕を回すと、そのまま体を押し付けて抱き付いた。
シャワーの後だからか、通常よりも火照った体の熱が伝わって来て、美弥は静かに目を閉じる。
「寒いから……温めて、欲しい」
「わかった」
返事と同時に抱きかかえられ、少し粗雑にベッドに寝かされる。
キスはなかった。美弥の為なのか、好きでもない女を抱く時の決まりなのか。
思えば、あの人が最初で最後だったから他の人と寝た事なんてなかった。
仕草や触れる手順が細かい所で違っていて、ああ本当に違う人なんだと思った。
(そっか、左利きなんだ)
余計に違和感を覚えたのは、逆の手で触れられているからなのだろう。
でもその方がいい。あの人と、一緒じゃない方がいいと思った。
(違う、ユキとは違う……だけど、手があったかい)
彼から与えられる熱は熱くて、とても気持ち良かった。
勝手に上気していく体、彼の慣れた指の動きに簡単に息が上がっていく。
熱くて、溶けそうで、何も考えられない。
密着した互いの肌が熱くて、一つになったようだった。
彼は全然喋らなかったけど、時折眉を顰めていたから気持ち良くはなっていたのだろう。
それでも冷めたような目が、じっと此方を見下ろしていた。
やっぱり彼も何かあったんだろう、そんな気がしている。
だから美弥は、すぐ目の前にあった彼の両頬を掌で包んだ。
揺さぶられながら、動かない唇をそのまま塞いだ。
慰められたかった。
だけどこの時は、慰めてあげたいような気がしたのだ。
そんな事をしても何の救いにもならない事、自分が一番よくわかっているのに。
彼の事情など何一つ知らないのに。
薄く目を開ければ、彼は僅かに驚いていた。
息を切らせながら舌を伸ばすと、それよりも強い舌に絡まれる。
まるで獣に食われているかのようなキス、だけど熱くて気持ち良くて、美弥の思考は溶けた。
そして気が付けば朝になっていた。
何も考えられないまま眠りにつき、朝を迎えるなんて久しぶりだった。
自宅のものではないシーツに気付き、昨夜の事を思い出す。
意識が遠のく頃は人の気配を感じていた気がするけど、もう彼の姿はどこにも見当たらなかった。
無駄に広い部屋でポツンと一人、美弥は自嘲の息を吐く。
(名前も知らない人となんて……どうかしてる)
だけどそれを怒ってくれる人は、もういない。
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