09




浮上しかけていた気持ちが、あっという間に崩れ落ちていった。
ユキがいない現実をもう一度突き付けられたようで、何をしていても不意打ちのように虚無感がやって来る。

どんなに平静を装って仕事をしても、無理して笑っていても、
結局好きな人が帰ってこない人生に何の意味があるのだろうと虚しくなる。

(近頃は、元気にやってたんだけどな……)

無邪気な子供達と接して、自然に笑って、積極的に料理を作ったりしていたのに。
料理をする事、食事をする事、もっと言えば美弥が生きている事さえも無駄ではないかと、もう一人の自分が心の奥で悲嘆に暮れている。
息を吸って吐いてるだけなのに、美弥の胸を蝕んでいく痛みと息苦しさに涙が出そうになる。

逆戻りしている事はわかっている。
だけど進む気にもなれなくて、仕事から帰ってきて現実が戻ってくると全身が脱力して、体を引き摺るようにしてやっとの思いでソファに寝そべる。
ただぼうっと、一人きりのソファでテレビも見ずに天井を眺めていると、メールの着信音が鳴った。
緩慢な動きで携帯を手に取り、表示された文字を目から脳に認識させる。

(コナン君……)

今度の休みにみんなで集まってカレーを作るから来ないか、という誘いのメッセージだった。

(駄目だな、私……)

杯戸ホテルで発作を起こした美弥の近くにいただろう少年に気を遣われるなんて。
彼は刑事達と一緒になって事件解決に貢献したらしいと後から聞いた。
あの時は動転していたが、そういえば沖矢を呼んで美弥を事件現場から運ばせたのも、確かコナンの判断だったはず。
凄いな、と美弥は素直に思う。

どこか子供らしくなくて、機転も利いて、こうやって一回り以上年上の美弥の事も気にかけてメールすらも送ってくれるのだ。
それに比べて自分の不甲斐なさといったら、自分で自分が嫌になる。
何とかしなければと思う、だけど頑張った所で意味なんかあるのかとも思う。
立ち上がろうとする自分と、気を抜けば闇に引き摺ろうと足を掴んでいる自分がいる。

正直今は、楽しく笑える自信がない。
連絡をくれたのが大人だったら適当な言い訳を添えて断っていたかもしれないが、相手はあの少年で。
子供の気遣いを無下にする事は、いくら今の精神状態であっても罪悪感の方が勝ってしまう。

携帯を置いてしばらく考える。
脳裏に浮かぶ、子供達の笑顔と笑い声。
上手く笑えないかもしれないけれど、何だかみんなには会いたいような気がして。
美弥は、ありがとう、と短い文章をゆっくり入力して、行く事を了承したのだった。






*****



阿笠の家にお邪魔して、美弥は思わず呟かずにはいられなかった。

「すごい量だね……」

コンロに配置された大型の寸胴鍋と、はみ出さんばかりにキッチンを埋め尽くす大量の野菜に驚きを隠せない。
玉ねぎと人参とジャガイモ、これらは明らかに刻まれてあの鍋で煮込まれカレーになる予定のものばかりだ。

「元太くんがいっぱい食べちゃうから、これくらいいるんだもん」
「確かに……」

歩美が言う通り、元太の底抜けの胃袋は侮れない。
それに加えて全員が満足できる量となれば、このくらい作らなければならないのだろう。
これは下拵えだけでも人手がいるだろう、だから来てよかったかもしれないと美弥は苦笑する。
哀を含めた女子一同で分担を決めて、野菜の下準備にとりかかろうと持ってきたエプロンを付けて袖を捲り、手を洗う。

今日は何の集まりなんだろう。
飲み物を買ってくる、と元太と光彦が阿笠からお金を預かって元気よく飛び出していった。
あの様子では恐らく他の物もいっぱい買ってきそうだ。
コナンは年季の入った壺を傍らに置きながら難しい顔でパソコンを見つめている。
どうやら壺の値打ちを調べているらしいが、皆が思い思いに動いているからメインのイベントが何かわからない。

けど、深く気にしないのは美弥の元来の性格らしい。
子供達が楽しく笑っていればそれでいい美弥は、まずは自分に課せられた玉ねぎを処理しようと無心で皮を剥く。

「元気ないわね」
「、え?」

隣に立つ哀が脈絡もなくそう言った。
振り返るが彼女は顔を上げる事もなくカレーに入れる肉を切り分けている。

「いつもより口数も少ない気がするわ」

普通にしているつもりだったが、彼女に声をかけられるくらい陰気な空気を出してしまっているだろうか。

「あ、ごめんね……暗い顔してたかな」
「別に、無理してと言ってる訳じゃないの。人間笑いたくない時だってあるんだから」
「…………」

彼女は本当に小学生なのだろうか。
達観したような言葉遣いに美弥は驚かずにはいられない。

「江戸川君があなたも誘ったのは気晴らしの意味もあるんでしょうから。呑気な子供達見てたら気も紛れるんじゃない?」
「……うん、ありがとう」

もしかしたらコナンから何か聞いているかもしれない。
だけど素っ気ないながらも、彼女らしい優しさを感じて美弥の心が温かくなるようだった。

(自分も子供なんだけどね)

"呑気な子供達"に自分を含めていない所が何だかおかしくて、密かに笑んだ。

野菜を刻み終え、炒めの工程になったのだがこれも結構な手間だった。
特に大量の玉ねぎを飴色になるまで世話をするのは中々に骨が折れて、三人で交代で鍋をかき回した。

具材が全部入りきった後に水を加えて灰汁を取り、ルーを溶かしていけばスパイスの良い香りが漂っていく。
ちょうど元太と光彦が買い出しを終えて戻ってきて、誘われるようにやって来る。

「美味しそうな匂いです!」
「もう食えるのか?」
「まだよ」

哀が冷静に返し、あと30分くらいだと歩美が告げれば男子達はあからさまに落胆した。

「まだ30分もあんのかよ……」
「そんなにかかるんですか?」

不満そうな声に、別でサラダを作っていた美弥はくすりと苦笑する。
見た目では完成しているように見えるが、カレーはここからの煮込みが重要なのだ。

(男の子にはまだわからないかな)

ちゃんと作りたい女の子と、早く食べたい男の子。
男女の差のようなものは子供でも大人でもあまり変わらないらしい。

微笑ましく思っていると、どこからともなくボールの弾む音がする。
その距離の近さにギョッとして振り返った時には、元太の蹴ったボールがキッチンの天井に当たって跳ね返り、
寸胴鍋にダイブして、傍にいた歩美にカレーの飛沫が飛散する。

「う、うわあああああん!!」
「あ、歩美ちゃん!火傷してない!?」

青褪めた美弥は慌てて駆け寄って顔面に飛んだカレーを拭う。
咄嗟に鍋の蓋で防いだようで、歩美は泣きながらも大丈夫だと頷いた。
カレーの染みでわかりにくいが、どうやら酷い火傷はしていないようで安心した。

深い息を吐くと同時、背後では哀の平手打ちの音が木霊した。

大人よりも先に烈火の如く怒りの声を上げた哀に、流石に項垂れて反省している元太。
必要な説教は全て彼女が言ってくれたので美弥の出番はなさそうだった。
怪我はなくてよかったが、肝心のカレーにはサッカーボールが突っ込んでしまいもう食べられそうにない。

また食材の買い出しからやり直しだと、哀の怒りは収まらない。
少年達は自分達が買ってくるから残ってればいいと宥めようとしているが、それが余計に苛立ちを増長させてしまう事に気付かない。
声を荒げた彼女の怒りは尤もで、こればかりは仕方ないなと美弥は苦笑いを浮かべるしかない。
お風呂に入って着替えてもらわなければならない歩美は阿笠に任せて、美弥も手分けして出掛ける事になった。

「お肉、安売りしてるお店があるの?」
「あ、う、うん!」

肉を買ってくるから、とそそくさ走り出したコナンに追いついて訊ねてみる。
元太と光彦側には哀という監視者がいるから、ならば自分はコナンと一緒に行こうと思ったのだが。

「スーパーと逆方向でちょっと遠いけど、安い所があるんだ!」
「そうなんだ、知らなかった」

彼はどこか目を泳がせ気味に頷いた。
もしかして彼女から退散するための口実だったんじゃないかと思ったが、一応本当にあるらしい。
それならそれで少し興味がある。

美弥が隣に並び立つと、コナンは走るのをやめて歩き出す。
チラリと、覗うような視線が見上げてくる。

「……美弥さん、大丈夫?」
「うん?」
「杯戸ホテルでの事……美弥さん、すごく苦しそうだったから」
「……うん、もう大丈夫。心配かけてごめんね」

やっぱり気にしてくれていたのだろう。
申し訳なく思うと同時に、彼はどこまで他人を思いやれるのだろうかと感心してしまう。

「優しいね、コナン君。それに刑事さんと一緒になって事件を解決したって聞いたよ」
「あ、それは新一兄ちゃんが……」
「新一兄ちゃん?」

初めて聞く名前だと、美弥は首を傾げる。
コナンによると遠い親戚で、あの沖矢が居候している工藤邸の一人息子らしい。

「工藤新一……聞いた事ある」

確か高校生探偵で、事件を解決したお手柄で何度も新聞に載っていた気がする。
高校生で探偵なんて、そんな賢い人と仲が良いならコナンの大人びた頭脳にも納得がいく。

「新一兄ちゃんに事件の事を教えたら電話で刑事さん達に説明してくれたんだ」
「そうなんだ……でも、事件の話をしたら解決してくれるかもって思ったのはコナン君なんだよね?
沖矢さんにも連絡してくれたのもコナン君だったそうだし、しっかりしてるね」
「う、うん……」

連絡してくれてありがとうと言えば、コナンは気まずそうに頷いた。
ふいに年相応な言葉遣いをするけれど、根っこの部分がもう子供じゃないんだろうなと思う。
いくら高校生探偵に頼ったからといって、小学生が事件現場で一人前に立ち回るなんて事、美弥がその立場であってもきっとできない。

「私は全然駄目だな……みんなに心配かけて、迷惑かけてばっかり……」

小学生が冷静に動いていた一方で、大人なはずの美弥はただ動揺して倒れていただけだった。
わざわざあの場にいない人に迎えにまで来させてしまって、傍迷惑もいい所だ。

「何もできない自分が嫌になる」
「……そんな事ないよ」

重苦しい溜息を吐けば、コナンが美弥の前に立って手を広げる。

「ボク、美弥さんのお菓子好きだけど、それだけじゃないよ。みんな、美弥さんだから嬉しいんだ。昴さんだって……」

大きな瞳が瞬いて、きゅっと緩やかな弧を描く。
真っ直ぐで澄んだ眼差しが綺麗だなと思った。

美弥さんは多分、自分が思ってるよりもみんなから大切だと思われてるよ。
事件を解決する事だけが全てじゃないから……だから、気にする必要ないよ……?」
「……ありがとう」

温かい、精一杯の言葉に美弥は堪らずしゃがみ込んでコナンの頭を撫でた。
なんだか照れたように目を泳がせるコナンが可愛くて、笑みが自然に溢れる。

「コナン君もそうだけど、哀ちゃんも……子供だと思えないくらい気遣いができる子達がいっぱいで、嬉しい」
「う、うん……」

出会ってからそんなに経っていないのに、大好きだなと思った。
心配して言葉を選んでくれる子供達の為にも、いつまでも暗い顔していたら駄目だなと美弥は立ち上がる。

「さ、お肉を買ってみんなの所に行こうか」
「……うん!」

気を取り直して歩き出して、軽い足取りのコナンと一緒に目的の店に向かった。
落ち込んでいた気持ちは、いつの間にか薄れていた。











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長くなったので続きます。