序章






――誰かが泣いている


か細い幼子の声が、朝日を浴びる岸辺に響く。
潮の満ち引きがその叫びに合わせるように音を立てる。

枯れるほど涙が流れた頃、また一つ周期的な音が混ざり合う。
それは少しずつ近づく、砂を踏む確かな足音。

「この辺りで蝕があったと聞いたが、やはり海客が流れて来たか」

見かけない衣装を身に纏った幼子が、湿り気を帯びた砂にまみれて蹲っていた。
現れた人影に少女はゆっくりと顔を上げる。

少女と呼ぶにはあまりにも幼く、乳飲み子とも思える海客は齢一、二歳程のまだ歩き始めぐらいだろう。
見た目では性別もはっきりしない年頃だが、それでも一目で"少女"だと思った。
汚れてはいるが柔らかそうな黒髪に白い肌、将来が期待できるはっきりした容姿をしていた。

男は片膝を付き少女を覗き込み、片眉を上げた。
少女の瞳が珍しい淡い銀色をしていたからだ。
夜明けの朝日を反射して微かに輝く銀光は、灰色とは違う色彩を生んでいる。

「……胎果か?」

低い声に反応して漆黒と白銀の瞳がぴったりと交わった。
少女は突如現れた男をまじまじと見つめ、男も自然に言葉が止まり、そのまま沈黙が続く。

あどけない瞳であるにも関わらず、それはとても深い白銀だった。

涙を浮かべて煌めく銀光に、男は一瞬吸い込まれそうな感覚を覚えた。
眩暈とも陶酔ともとれるそれを少女に対して感じたのは、これが初めてだった。

「……何をやってるんだ俺は、こんな幼子に」

男はふっと笑うと気を取り直して、泣き止んだ少女を抱きかかえ岸辺を後にした。












「おや、風さん。どうしたんだいその子……」
「海で拾った。どうやら海客らしい」

男が連れて来たのは、海の近くの大きくもなく小さくもない農村。
時々立ち寄る宿屋の若女将が話しかけてきた。

「お前、名前は?」

そう自分にひっついてる少女に問うが、少女は「あー」や「まー?」と言うばかり。
海客であるなら男にとっては言葉に支障がないはずだったが、言葉自体が話せないのならどうしようもない。

「まだ喋れないようだねえ」
「里家に預けるには幼すぎるようだし……どうしたものか」

若女将はしばらく考え、そしてある事を思い出した。

「そうだね……ならここから近くにある家に行くといいかも。
そろそろ子供が欲しいと言っていたから、もしかしたら引き取ってくれるかもよ」

親子と言えども、顔も姿も似ない世界だからこそ思いつく考えであった。

とりあえず若女将の言う通りにその家に行ってみると、中から優しそうな夫婦が現れた。
男が事情を説明すると、夫婦は意外にも快く引き受けてくれた。

「いいのか?」

長いことこの世界に生きていてもやはりこの文化だけは慣れぬものだ、と男は内心苦笑していた。

「ええ、可愛らしい子ですし、風漢さんの頼みなら、ね?」

まだ若い女性は夫を振り返る。

「俺を知っているのか?」
「ここじゃ有名ですよ?いろいろと世話を焼いてくれると」
「俺はそんな大層な事はしてないがな」

男は苦笑しながら少女を夫婦に抱きかかえさせる。
何もわからない少女はきょとんとした顔で男と夫婦を見比べていた。

「まだ喋れないなら名前も分かりませんね……そうだ、風漢さんが新しい名前を付けてくれませんか?」
「俺がか?」
「ええ、風漢さんがこの子を見つけたのも何かの縁でしょうし」
「……そうか……」

突然の提案に困惑しながらも、男は銀目と再度見つめ合う。

元々人見知りしないのか笑ってばかりの子、その淡い光が自分に向かって押し寄せてくる。
突き刺すようでいて、だけど温かいものが染み渡るような不思議な感覚。

少女の名前は、自然と溢れた。


「…………鳳綺
鳳綺……いい名前ですね。鳳綺、よかったわね」

これから母親になる女性は少女に微笑んだ。
この様子ならば大丈夫だろうと、男は安堵の息をついた。
彼女達なら大切に育ててくれるだろうと。

「では、俺はここで」

言い終わると同時に、白い虎のような騎獣が男の近くに降りたった。
気が付けばもう日は傾き、空が赤らんでいる。

「ありがとうございました」
「いや、礼を言うのはこちらだ」

虎の手綱に手を掛けようとした瞬間、母親の腕の中にいた少女が男の袖を掴んだ。
寂しそうに「あー」と訴え、淡い光をまとった瞳が男に瞬いた。

男は少女の頭に手をやり、柔らかな髪を撫でた。

鳳綺、綺麗になったらまた会いに来てやる」

夕日を背に浴びた男の優しい瞳は、少女からはよく見えなかった。


男は騎獣に跨ると赤い空へ飛び立っていく。
天へ伸ばした少女の手が、いつまでも虚空を仰いでいた―――






















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ありきたりな展開からスタートです。

(全話加筆修正2008.6-、再修正2010.11、リメイク2019.10-2020.4.29)