―――「藤姫」
ああ、声がする。
私が好きで好きで仕方のなかった、あの優しい音色で。
生来の名だろうと愛称だろうと、呼んでもらえるならそれでよかった。
「……長政、様……」
暗闇の中で照らされる唯一の光、眩しい太陽のような金糸。
全てを包み込む柔らかい笑顔で、私を待つように佇んでいる。
「綾葉」
「、お市様……」
あの人が愛した、花のような姫もその姿を現わし傍らに寄り添う。
よかった、黄泉の国であの方は長政様に会えたんだ。
儚さを浮かばせながらも慈しむ眼差しで、長政様と一緒に私を待っている。
「長政様……お市様……っ」
どれだけ時が経っても一度たりとも忘れた事のない、大切な人達。
目頭が熱くなって滲んでいく視界でも、ほぼ反射的に手を伸ばした。
早く、そちらに行きたい。
会いたい、ずっとその為に生きてきた。
「私……私――っ!」
その先の言葉を紡ごうとして喉が詰まった。
ハッとして背後を振り返れば、赤色が映える装束を身に纏った人が立ち尽くしてるのだ。
感情の読めない表情で、だけど彼は風のように涼やかな目で。
不機嫌にも思える色で此方をじっと見つめてくる。
「――あ……」
掴まれたように胸が痛んで、心が跳ね上がった。
あの険しい顔は決して冷酷なものじゃない、平穏だ。
穏やかに私を温めて、だけど時折激しく揺さぶる。
ああ、彼だ。
私はずっと、あの不器用な主を……
「……っ!」
手を伸ばそうとして、躊躇った。
正面には太陽のような眩しい人がいる。
そして後ろには、月のように静かな人がいる。
交互に見遣ってもすぐに決められる訳がない。
どちらかを選べば、その一方が消えてしまう。
どちらも捨てられない、一体どちらに行けばいい?
だけど、だけど―――!
「藤姫」
弾かれたように顔を上げると、微笑みを絶やさない主が手を上げる。
そして私の背後を指さして、一度だけゆっくりと頷いた。
優しい表情の姫も、同じように笑ったまま。
(……あちらへ行けって、事……?)
鷲色の主は睨むように私を射抜いて、そのまま背中を向けた。
毅然と離れていく姿は、私には寂しそうに見えた。
「あ……、三成様!」
その瞬間、はっきりと意思が芽生えた。
私が行くべき道は……こっちだと。
「長政様……お市様……!」
私の奥に眠る、最も守りたかった人達。死なせてしまった人達。
私を愛してくれた人達は、それでも笑ってくれている。
こんな私を、許してくれるのですか?
「大好きです……今もずっと、変わらず!でも……私は、三成様の傍にいたい……!」
誓いを違わせてごめんなさい。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!」
遠くで見守るように佇む2人の口が微かに動いた。
――幸せに、そう聞こえた気がした。
そして2人は無数の光になって、消えていった。
淡く散っていく光景に涙が溢れて、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。
「いつか必ず、会いに行きますから……三成様と一緒に……っ」
ひとしきり泣いて、顔を上げた。
涙を拭って、背を向けたまま独りで歩く人の元へ駆けた。
「三成様!」
今度こそ、迷わずに生きたい。
鷲色がどんどん近づいてきて、もうすぐで触れられると思った瞬間に。
ふいに彼が振り返って、ぎこちないながらも頬を緩ませた。
涼やかな瞳で、私を見つめて。
「……綾葉」
ああ、声がする。
私が愛しくて愛しくて仕方のない、あの穏やかな音色で―――
「……夢……」
気がつけば天井が目の前にあった。
眠りから覚めたばかりなのに意識ははっきりとしていて、外を見遣ればうっすらと明るかった。
もそもそと布団から抜け出すと、さすがに肌寒くて襟を寄せながら襖を開けた。
朝方は確かに寒いが、それでも真冬の凍えるような空気はない。
あんなに厳しかった冬はいつの間にか姿を変え、暖かい気配が綾葉を出迎える。
「……とうとう、この日が来たんだ……」
枯れきっていたはずの木々には、小さな蕾が息づいていた。
今年も芽吹く、命の花が。
39・無垢色
こんな日が来るなんて、思ってもいなかった。
「ありがとう綾葉、三成を選んでくれて」
入って来るなり、ねねは母親のように微笑んだ。
白色の映える装束を着込んで段取りを待っていた綾葉は、突然の訪問に畏まって頭を下げた。
「そのようなお言葉……私には勿体ないです」
「ううん、そんな事ないわ。選んでくれたらいいなと思ってたから、自分の事のように嬉しいの」
改まって告げられた言葉は綾葉にとって涙が出るほど嬉しかった。
誰かを好きになって感謝されるなんて、今まであっただろうか。
こんなにも自分を肯定し祝福してくれる人達に、綾葉こそ感謝の気持ちでいっぱいだった。
「あの子は生きにくくて、誤解ばかり生んじゃう子だけど……綾葉がそれを少しずつ変えてくれた」
「、いいえ……」
変えてくれたのは彼だ。
どんな主と出会っても恋慕なんて芽生えなかったのに、彼だけは違った。
誰とも打ち解けず、ただ主に仕え死を待つだけだった綾葉の心を溶かし、不器用にも親愛をくれた。
義も力も持ち合わせているのに"生きにくい人"、だからこそ傍にいて支えたいと思った。
主従の関係を越えて人と向き合う力をくれた、生きる希望を与えてくれた。
だから今、こんなにも悦びを胸に抱いていられる。
「あの子には綾葉しかいないわ」
ねねの笑顔につられるように、自然と綾葉の目尻から涙が溢れた。
自分こそ、あの不器用な主が必要なのだ。
「……ありがとう、ございます…っ」
「あらあら、泣いたら白粉がとれちゃうわ」
「すみません……」
「いいのよ。可愛い子ね、綾葉は」
控えていた奏が涙を拭き取ろうとするが、それでも頬を濡らしながら綾葉は丁寧に三つ指をついた。
「……私にとっても、三成様しかいません……三成様がいたから、今の私がいます。
こんな私を温かく迎えていただいて、感謝のしようもございません……」
「何言ってるの。貴女は初めから私の娘のようなものよ?幸せを願うのが当たり前なんだから」
「……っ、はい……」
「もう泣かないの。これから大事な式なんだから」
ねねはくすりと笑い、綾葉が落ち着くのを待った。
涙を拭われながら、俯き加減で座している姿はとても綺麗だった。
彼女が慕ったというかつての主に、ねねは密かに心で祈った。
浅井長政が慈しんだ彼女は、その意思を引き継ぎながら幸せになろうとしている。
だからあの子を私達にください、と。
三成に出会わせてくれてありがとうと、呟いた。
「私の目に狂いはなかったわ」
ねねは満足そうな顔で部屋を出た。
祝言の前に、それだけは伝えておきたかったのだという。
もうすぐ新郎側の迎えがやってくる。
本来なら新婦の城から新郎の城まで行列を成していくところを、同じ城内で形だけ行う手順になっている。
「綾葉様、いよいよですね!」
「うん……」
いくら役を務めてくれるのが見知った人達でも、勝手知ったる城内でも緊張はする。
奏がなんとか笑わせてくれようとするが、今日という日は無理に近い。
「いくら武に長けていてもこればかりはねぇ隊長……じゃなくて、綾葉殿」
「いいんですよ在時殿、いつも通りで」
「すんません……まさかこんな大役を仰せつかるとは思ってもなかったんで」
在時は新婦を守りながら列を作る護衛役の一人だ。
要するに"こんなに大仰に守られるほど大切な姫だから丁重に扱ってくださいよ"という意味を示す位置なのだが、
在時にとっては予想もしていなかった役目だろう。
「まぁでも大切な隊長である事には変わりないですから、やる事はやりますよ」
「……ありがとう、在時殿」
巻き込んでしまったと申し訳なく思ったが在時もまた気分を盛り上げようとするものだから、
綾葉の緊張は少しだけ緩み、固かった表情も柔らかくなった。
だが、一歩一歩近づいてくる足音に部屋は静まり返る。
襖の向こうからようやく新郎側の使者の気配がする。
「藤家の綾葉姫のお部屋はこちらかな?」
左近が厳かにやって来て、わざとらしい程に丁寧な礼を示した。
「お迎えに上がりましたよ、姫」
「…………」
(似合いすぎる……)
そう思ったのは奏や在時だけでなく、綾葉もだった。
彼以上にこの役を演じきる事ができる人間はいないだろう、それほどに適任だった。
初めて会った時のように、相手を見透かすような目で綾葉を見つめる。
この状況を心底面白がっているような顔、だから自分は彼が嫌いだったのに。
「さあ参りましょう、殿がお待ちですよ」
嫉妬してみたり敵視してみたり、色々な事があった。
だけど彼にも随分助けられた、そんな事を思い返しながら綾葉は立ち上がった。
そして、祝言が始まる。
――髪に挿した飾りが、音を立てる。
「簪はあるか?どうせ持っているのだろう」
左近に連れられ綾葉が姿を見せると、三成は驚きを隠せないのか目を見開いていた。
どこか落ち着かない主の様子に、綾葉は嬉しくなってくすりと微笑んだ。
笑われて少しだけ不機嫌になった主は、だけど静かにそう口を開いた。
藤色の簪は"藤姫"の証。
どうしても身につけていたくて隠し持っていたのだが、よもや指摘されるとは思わず綾葉は狼狽した。
だが三成は怒っている様子もなく、"仕方のない奴だ"と溜息だけをついて。
「挿してやるから出せ。お前にはそれが必要だろう?……それがあってこその、お前だ」
そう言いながら彼は挿してくれたのだ。
他の男からもらった飾りを、しかも二人の大事な祝言の日に。
許してくれるなんて、受け入れてくれるなんて。
また綾葉は泣きそうになって、それを振り払うように笑った。
藤色が見守っている。
亡くしてしまった人達が、それでも傍にいる。
「よかったなぁ三成!これでワシの世も安泰じゃあ!」
秀吉が上機嫌で頷いては、高らかに声を上げる。
その隣のねねも、自分の事のように嬉しそうに微笑んでいる。
「三成、綾葉。こんな世だけど、幸せになるんだよ?」
「……はい」
先に返事をしたのはどちらだったろうか、はっきりとは覚えていない。
ただ、綾葉はこの光景を記憶に焼き付けようと思った。
縁談が決まった時は一陣の風のように綾葉の周囲を過ぎ去っていったが、今回は自覚がはっきりとある。
最初で最後の、自分の祝言。
ただ一度の、二人が夫婦となる誓いの日。
戦で人を殺し続けた自分の身は血にまみれていて、これからも必要があれば人を斬るだろう。
いつかは自分こそが斬られるかもしれない、主の盾となるかもしれない。
どんな時も自分には血の赤がまとわりついているけど。
決して忘れないだろう、忘れないでいよう。
今だけは、この身が純白に包まれている事を。
何にも染まる事のない、純粋な無垢の色に。
「綾葉、飲め」
「……はい」
決められた数だけ口に付けられた盃が綾葉の両手に収まる。
あの頃、憧憬の眼差しで見ていた"幸せ"の証が、眼前にある。
(これで……私と三成様は主従ではなく、夫婦になる……)
だから誓おう、最後まで彼の支えになる事を。
伴侶として彼を愛し、そして配下として彼の傍にいる事を。
彼と共に、太平の世を作り上げる事を。
だから、生涯忘れないでいよう、この神酒の味を―――
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無垢色=むくいろ。造語です。
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