06
意識が微睡みの海に沈みかけた頃、ベッド脇のサイドテーブルに置いてあった彼の携帯が震えた。
シュウが上半身を起こし、薄暗がりのなかで画面を確認して通話ボタンを押す。
隣の気配が動いた事で目が覚めた美弥は、ふいになくなった温度に肌寒さを覚えながら、寝ぼけ眼で彼の肩甲骨を見つめる。
携帯の向こうから女性らしき声が洩れ聞こえるが、気になるのはそこではなかった。
(英語喋ってる……)
とても流暢な英語で相手と会話していて、何を喋っているのか美弥には全く理解できない。
それも日本人が勉強して必死でカタカナ英語を使っているのとは訳が違う、これは所謂ネイティブというやつだ。
(本当に、何者なんだろう……)
知り合いと当たり前のように英語で話すなんて、一体どんな仕事をしているのか。
外資系企業に勤めているなら英語も堪能だろうが、とてもじゃないが一般の会社員には見えない。
スーツを着ている姿をどうしても想像できないのだ。
フリーランスの何かとかそういう線もあるかもしれないし、意外にバンドマンとか音楽芸能関係かとも思ったが、とにかく普通ではない。
時折垣間見る目付きの鋭さは、いっそどこかの悪い組織の人だと言ってもらった方が納得できる。
(だけど、私には関係ない)
たとえ彼が表には出られないような人間であったとしても、美弥にとってはどうでもいい事だ。
良いように利用されて、たとえば最後に殺されるのだとしても、それはそれでいいとも思っている。
どの道、美弥の人生が明るくなる事はないのだから。
彼を良い人だと思いたいのか悪い人と思いたいのか、自分でもよくわからない。
だけど彼の腕は温かくて、乱暴もされてないし無理な事もされていない。
だからそれでいいじゃないかと、美弥の思考はいつもそこでフリーズする。
通話が終わり、美弥は目を瞑る。
様子をじっと窺って詮索していると思われたくなかったからだ。
シーツの音がして、彼が体の向きを変える気配がする。
「美弥、起きてるだろう」
「、あ……うん」
思ったより至近距離で囁かれて、美弥は素直に目を開けた。
断定されたら頷くしかない。
「行く所ができた。一人で寝られるな?」
「……うん」
用事ができた事はいい。
わざわざ彼が美弥に声をかけてベッドから出た事に驚いた。
いつも朝には消えていたのだから、黙って出て行くものだと思っていた。
(意外と律儀……)
「いい、寝ていろ」
「…………」
見送るつもりで起き上がろうとしたら止められた。
彼はベッド下に散らばっていた服を集めると浴室に向かったようで、かすかにシャワーの音がする。
手早く済ませたのか、事後の気怠さなんて微塵も感じさせずに出て行く足音を、枕に頭を埋めながら耳をすますようにして聞いた。
ほどなくして、チャリンと玄関の内側に部屋の鍵が落とされた音を最後に、辺りはしんと静まり返る。
最初の頃に、朝気付いたらいなくなっていたのは、もしかして美弥を起こさない為だったんだろうか。
彼は、美弥が思っているほど冷酷で薄情な人ではないのかもしれない、そんな風に思った。
シュウの温もりが消えないうちに、美弥は丸くなって目を瞑る。
たとえこれから違う女の所に行くのだとしても、それでも美弥には関係のない話だった。
(……シュウ、既婚者って事はないよね?)
ふと、別の不安が美弥を襲う。
よく考えれば大前提として聞いておかなければいけない事だったと思うが、最初の頃はそんな余裕すらなかった。
大切な人を失ったんだと仮定しても、確かにそれが異性だとは聞いていない。
美弥がそうだったので勝手に恋人だと思い込んでいたが、もし家族がいるのなら相手の女性に悪い。
他人に言えるような関係ではなくとも、それでも誰かを不幸にさせるような事は絶対にしたくない。
違うとは思いたいけどもしそうなら、その時には潔く彼と縁を切ろうと内心で何度も頷いて、今度こそ眠りの世界へ旅立った。
*****
『今日行ってもいいか?』
その変わらない文章に美弥は困ったなと思った。
せっかくシュウからの連絡が来たというのに、今日に限って此方の都合が悪い。
了承の言葉を返したいのに、そうできない事に残念さを感じながらメッセージを入力する。
『予定はいいんだけど、その……月のが、来ちゃってるから』
ただ断るだけだと拒否と受け取られるかもしれないから、気恥ずかしさを覚えながらも理由をきちんと書いた。
ぼかしてしまったけど彼なら多分理解してくれるだろう。
そう、今は毎月のいつもの期間中だ。
何と返ってくるだろうか、それが気になった。
なら今日は行かないと言われたら、残念だけどそうするしかない。
恋人でも何でもない自分達の繋がりは体だけなのだから、できないのなら意味はないと思われても仕方ない。
さほど時間がかからずに連絡が返って来て、帰り支度をしていた美弥は恐る恐るその文章を確認する。
『問題ない』
「…………」
(問題ないって、どういう事?)
とにかく来るという意味だとは思うが、その先も構わずするという事なのだろうか。
確かに生理中でもできない事はないけど、準備や後片付けも大変だろうし、何より血みどろになってしまうのが気がかりだ。
個人的には血みどろは嫌だ、だけど来てもらっているのだからあまり強く拒否もできない。
どうするんだろうと戸惑いながら、美弥は家に帰ってとりあえず準備をした。
待っていればいつものようにシュウがやって来て、特に変わらない様子で酒を飲み始める。
内心の緊張を悟られないようにしながら彼の隣にそっと座った。
美弥が作ったつまみを何も言わず口に運ぶ。
今日はベーコンと里芋を黒胡椒で炒めたものや、茹でた砂肝と玉ねぎを酢醤油タレに漬けたもの、あと常備菜がいくつか。
何回か眺めていて気付いたが、彼は酒のあてがなくてもそれだけで飲めるタイプのようだった。
だけど残さず食べている所を見るに、少なからず気に入ってくれているのかもしれないと思うと嬉しい気がした。
空いた皿も洗い終えてしばらく経った頃、読んでいた本を閉じたシュウが口を開いた。
「そろそろ寝るか」
「う、うん」
肩に腕が回されたり唇が触れ合う事もなく、そう切り出されるのは初めてだった。
思わず動揺を見せてしまえば彼が首を傾げる。
「どうした?」
「う、ううん……今日、するの?」
恐る恐る尋ねると、シュウは訝しそうに目を細める。
「できないと言っただろう?」
「う、うん、言ったけど……どっちなのかなと思って……」
口籠りながら答えれば、考える素振りをした彼はそれに気付いたのか小さく笑った。
「ああ、問題ないと言ったからか。そこまで飢えてはいないぞ」
「……そうなんだ」
(じゃあ、しないけど来てくれたんだ)
当たり前だという顔をしているので美弥は目を瞬かせた。
彼にとっては何の得もないだろうに、ただ女の家に来て酒を飲んで文字通り寝るだけ。
寝るのも、感覚的には添い寝の意味合いの方が強いだろうに、わざわざ来てくれたのか。
やっぱり彼は、優しい人なのかもしれない。
それとも、できはしないけど宿代わりに思われているか。
けど彼ぐらいの人だったら、不都合な女の家に行くよりは他にもアテはありそうなのに。
色々考えてしまったけれど、とにかく意外だったというか、不思議な感動を覚えたのは間違いなかった。
体を繋げず、服を着たまま二人でベッドに寝転がるのは初めてだ。
余談だが、彼が着るのは美弥が用意した部屋着だ。
着替えだったりで一着ぐらいは必要だろうと思って買っておいたものだ。
上下黒色無地のリラックスできそうな綿素材のシャツと幅が広すぎないストレートパンツ。
もしかしたら下着で寝るタイプかもしれないが、着る?と一応聞いてみれば、彼は素直にそれに袖を通した。
事後であれば躊躇いなく彼の素肌にくっつけるのに、素の状態だと服を着ていても逆に勇気がいる。
狭いベッドなので二人で寝るにはどうしても体を寄せねばならず、向かい合わせで横になれば、シュウの鋭くも真っ直ぐな瞳が此方を見ている。
「なんか、恥ずかしい……」
「今更だな」
「そうなんだけど……」
最近気付いた。
彼の瞳は普通の黒色だと思っていたけど、どうも違うらしい。
今のような薄暗がりだとわかりにくくても、光を通すと不思議な色合いを見せる。
何もない漆黒から、ふと暗めの青か緑の深い色が黒に混じる瞬間があって素直に綺麗だと思った。
(純日本人じゃないのかな?)
英語も話せるし、もしかしたらそうなのかもしれないが、答えは求めていなかった。
「どうかしたか?」
「ううん……」
だから、その珍しい色にじっと見つめられると弱くて美弥は俯き加減で目を閉じる。
何だかいつもより機嫌が良さそうなのは気のせいだろうか。
美弥が寝る体勢をとれば、自然と背中に彼の腕が回ってくる。
他人の感触と温かさに安心して、気恥ずかしさなんてどこかに消えて少しだけ彼の方に身を寄せる。
その一連のスマートな流れに、美弥はふいに思い出した。
「あ」
「ん?」
眠気も吹き飛ばして視線を上げれば、目の前にはきょとんとした顔が。
「……ねえ、シュウ」
「なんだ」
そう、安心して寝てしまう前に聞いておかなければならない事があったのだ。
あまり詮索はしたくないのだけれど、これに関しては知らないままの方が罪になってしまうかもしれないから。
彼がどういうつもりで美弥とこういう関係になっているかわからない。
彼は「同じ目をしていた」と言っただけで、大切な人を失った事を明言された訳じゃない。
それが恋人だったかなんて、そんなデリケートな事はもっと聞けない。
「ひとつだけ、確認しておきたいんだけど……」
「ああ」
「……既婚者じゃ、ないよね?」
「…………」
躊躇いながら口にすれば、シュウは呆気にとられたように暫し固まった。
滅多に見られない反応だなと、美弥は見当違いな事を思いながら返答を待つ。
やがて彼は、鼻で笑うとかでなく吹き出すように笑った。
「ああ、安心しろ。お前に不倫の片棒を担がせるつもりはないぞ」
「そっか……なら、よかった」
はっきりとした言葉が聞けて安堵の息を吐いた。
ひとまず美弥のせいで悲しむ人はいないという事だ。
ならいいんだと、また同じような体勢に戻って寝ようとするが、未だにクツクツと笑っている声がする。
珍しいなと思いつつ、そんなにおかしな質問だっただろうかと見上げると、その視線に気付いたらしい。
「この状態で改まって聞く事がそれかと思ってな」
「それは、確かに……」
腕の中で尋ねるような話題じゃないかもしれないが、大事な事だ。
真面目な話なのに、と何だか腑に落ちない気分で見つめれば彼は緩く目を細める。
「確認したい事はもうないのか?」
「とりあえず今は、大丈夫」
「……そうか」
首を横に振れば、彼はまた小さく笑った。
軽く引き寄せられるので、美弥は今度こそ安心してその腕に包まれた。
彼の静かな息遣いを感じながら、ぼんやりと考える。
結局、彼は誰を失ったのだろう。
やっぱり恋人だったりするのだろうか。
(好きだったのかな?)
恋人であるなら普通は好き合っているはずだ。
(シュウが好きになった人ってどんな人なんだろう……?)
考えても仕方ない事なのに、少し気になった。
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彼の目の色は原作だと明記されていないので曖昧にしています。
カラーだと青色だったりもするので(コナンもですが)