08




そろそろ夕食を作り始めようかと思っていた夕方よりも前の事、ふいにかかってきた電話は意外な人物からだった。
今までは文章でのやり取りがほとんどで、ここ最近はそれすらもなかったというのに。

『少しだけ出てこられませんか?時間はとらせませんから』

安室の、窺うような柔らかい口調。
本来なら此方から出向きたいのだけれど無遠慮に女性の一人暮らしの家を訪ねるのは憚られるので、と言われて、以前の遊園地の事とか色々を思い出して警戒はしたが。
声色が、目的の為に有無を言わさないように仕向けている雰囲気ではなく、嫌じゃなければ、と遠慮がちなもので。

『連続殺人犯の被害にあったと聞いて慌てて来てしまいました。できたら、無事な姿を見せてほしいんです』

ここ数日で色んな人が美弥の家を訪ねてきた。
だから彼だけ拒むのも何だか悪い気がするし、結局彼が悪い人なのかそうでないのかわからずじまいなままで。
自分が下手な事を言わなければいいかと、美弥は諦めて了承の言葉を返してから電話を切った。

薄手のストールを軽く首に巻いてマンションの外に出ると、路肩に停車されているRX-7に寄りかかっているスーツ姿の人影を見つけた。
スーツを着ている姿なんて初めて見たので、それだけで様になっている安室を呆けたように見ていると人好きのする顔で微笑まれる。

顔を合わせるのは遊園地での一件以来初めてであるが、彼はその時の気まずい空気などなかったかのように立っている。
美弥に近寄ってくる彼の眼差しは以前見たような暴かれるような怖さはなく、ポアロでの完璧な笑顔とも少し違うようで。
真面目さを帯びたような真っ直ぐな強さを感じて、いつもよりどこか誠実な印象を覚えた。

「こんばんは、わざわざ出てきてくれてありがとうございます。美弥さんの顔が見られて安心しました」
「いえ……ご心配をおかけしてすみません」

もう何人から似たような事を言われただろうか。
それだけ心配してくれる人がいる事に嬉しさは感じているが、ここまで皆に気遣われると逆に申し訳ない気持ちになってくる。

安室は眉尻を下げて、美弥のストールのあたりを見つめている。
聡い彼は首に傷がある事、もっと言えば首を絞められた事もわかっているのだろう。

「首……ですね。唇や頬にも腫れた痕がありますね」
「そうなんです。でもいずれは消えるだろうって言われてるので、大丈夫です」
「本当に、無事でよかった……」

本心から言っているような声だった。
心配してくれているのは確かだけど、それだけじゃない空気も感じ取って美弥は不思議に思う。
痛々しい、とも違う。どうしてか苦虫を噛み潰したような、悔しそうな表情をしているから。

(でも、どうして?)

悪い人が、そんな顔をするのだろうか。

「……安室さんが気にする事じゃないですよ?」
「そうですね。けど、貴女には怪我をしてほしくなかったので」
「…………」

彼の真意がわからない。
内心で首を傾げているうちに浮かない表情は消え去り、安室は苦笑のような穏やかな笑みを見せる。

「強くなりましたね、美弥さん。初めて会った時に泣かれてしまった時からは見違えるようです」

安室に初めて会った頃、美弥はボロボロだった。
強くなった自覚はないが哀にもそんな感じの事を言われたから、確かにあの頃に比べたら自分はこういう事に場慣れしてしまったような気がする。

「でも山で助けられた時、みっともなく泣いてしまいましたけどね」
「それは当たり前の反応です。怖くて当然なんですから、泣いていいんです」

何だか今日の彼はいつもと雰囲気が違う。
ポアロにいる時は女子を虜にする完璧な笑顔でいるし、探偵として動いている時はもっと心を覗くような目をするのに。
波土禄道の事件の時の、獲物を狙うようなギラギラした目とも違う。
かっちりとした細身のスーツを着ているからそう感じるのだろうか、まるで人が違うようにも思える。

じっと安室の目を見つめていると、くすりと苦笑いをされた。

「今日は何も探りませんよ。そうしても貴女にはバレてしまうでしょうから」
「…………」
「思ったより元気そうでよかったです。あ、よければこれ、食べてください」

美弥が困惑するのを余所に、安室は車のドアを開けると中からプラスチック容器を取り出した。
透けて見える中身は料理のようで、手渡されたそれを呆けたように見下ろしていると頭上から「僕の自信作ですから」なんて声がする。

「夕食の足しにでもしてください」
「どうして……」
美弥さん、あまりポアロに来てくれないから。こうでもしないと僕の料理を食べてくれる機会なんてないですからね」
「……ありがとう、ございます」

できたら今度は美弥さんの料理を食べさせてくださいね、と反応に困る事をウインク混じりに言われる。
真面目な顔をしたり冗談めかしていたり、掴みどころがない人だなと思う。
だけどどうしてだろう、今日の彼は信用できる気がした。

「もしこれからも困った事があったら、沖矢さんでなく僕を頼ってくださいね」
「…………」
「僕はいつでも美弥さんの力になりますから」

それだけ言い残して安室は車に乗り込んで颯爽といなくなってしまった。
何故かはわからないが、本当に様子を見に来ただけだったらしい。
嵐のような人だなと、しばらく立ち尽くして車がいなくなった方角を見つめた。

部屋に戻り、もらった料理を味見してみると驚いた。

「すごい、美味しい……」

プロの料理人が作ったのかと思えるくらいの完璧な味付け。
その温かさを噛みしめながら、たまにはポアロに顔を見せに行くのもいいかなと美弥は小さく笑った。






*****



「うわぁ、気持ちいい」

とてつもなく見晴らしのいい景色が眼下に広がっていて、思わず声が漏れた。
地上とは違い若干薄くなった空気はキンと冷えたように澄んでいて、壮大な蒼い空は迫ってくるように視界を覆いつくす。
体重をかけた手すりの先から青々とした緑の丘陵が遠くまで続き、美しい湖を挟んだ向こうの山々は雲がかかって霞んでいる。
さっきまで自分達がいた市街地は麓の方角に小さく見えて、まるで別世界に来たかのよう。

吹き抜ける風を顔に浴びながら、美弥はゆっくり深呼吸をする。

「連れてきてくれてありがとう」

振り返ればここまで運転してきてくれた沖矢が静かに笑みを浮かべている。

首の跡が消えるまでは最低限以外の外出を控えていたおかげで、ほとんど家に籠っている生活だった。
痣が見えなくなりようやく職場復帰できた後の休日に、どこかに出掛けようと赤井から提案された。
いつもより遠い所に行こうという話になって、彼は沖矢の時に乗っているスバル360でなくマスタングにまで乗り換えてきた。

ちなみに車名とかスペックとか詳しく教えてもらったが、美弥には全て把握できる訳もなく何となくでしか記憶できていない。
鮮やかな赤色の外国製の車に乗るのは彼が生きている事を明かしてくれた時以来だ。
右側の助手席はやっぱり慣れないが腹部に響く重いエンジン音は心地よくて、久しぶりのドライブも嬉しかったので話しているうちに気が付けば数時間が過ぎていた。

目的地の駐車場からロープウェイで山の上に登ると展望スペースがあり、お洒落なレストランやカフェが併設されている。
新しくできた観光名所だそうで、少し前にテレビで特集されていたのを目にして行きたいなと密かに思っていた場所だ。
美弥がいいなぁと何気なく漏らした言葉を、彼は覚えていてくれたのだ。

(シュウは、私に甘い)

FBIの仲間達と話している所を見ている限り、彼はクールだし他の仲間達とも必要以上に距離を詰めない一匹狼のような人だと思う。
懐に入れた人間に対しては情を見せてくれるようだが、ことさら美弥に対しては自惚れてしまいそうなほどに優しかった。
この景色だって彼自身が興味を持って見たくなったから来た、という訳ではないはずだ。
美弥が喜びそう、それだけの理由でわざわざ長距離を運転してきたのだ。

どうしてそんなに、とも思う。
だけど、もう欠かせなくなってしまっている事も確かで。

彼の手を放したくないと、あの時、連続殺人犯から助けられた時に強く思ってしまった。
犯人に追いかけられている間だって、美弥は赤井の事しか考えていなかった。

ずっと見て見ぬふりをしていた。気付かない振りをしていた。
だけど、もう認めない訳にはいかなかった。

(……シュウが好きで好きで、仕方ない)

隣に立つ、変装した沖矢の横顔を盗み見ては胸が切なく詰まる。

初めは、ただ逃げているだけだった。
ユキのいない寂しさを紛らわす為なら、体温を分け与えてくれるなら誰でも、どんな素性の人でも構わなかった。
なのにいつの間にか彼自身の温かさを知ってしまった。
一度は失われたと思った後も、沖矢として傍にいてくれた。
体の関係だけだった自分など捨て置けばよかったのに、それでも彼は他人のふりをしながら美弥に関わった。

赤井が生きている、それだけで奇跡だったのに。
彼は美弥に愛してると告げた。

「風が強いな。大丈夫か?」
「あ、うん。ちゃんと上着持ってきたから」

厚手の上着を見せれば、沖矢は口角を上げてまた遠くを眺める。
口数は多い方ではない、だけど放っておかれている訳でもない。
必要な言葉は言ってくれる人なので、無駄がない人なんだと思う。
静かに見守られているんだとわかっているから、会話がなくとも隣にいるだけで心が穏やかになる。

人肌に依存しているだけだと思っていた。いや、そう思いたかった。
自分はいつから彼の心に惹かれていたのだろう。

(もしかしたら、最初からだったのかもしれない)

だけど、それは認めたくはないものだった。
自分はユキが好きだ。今でもユキに対する気持ちは変わらない。
ユキより誰かを好きになるつもりなんてなかった。
なのに、今こんなにも泣きそうな気持ちになるのは、彼に対する感情が溢れているから。

(ユキが好き。だけど、シュウも好き……)

両立してはいけない感情に胸が苦しい。
時が止まってしまったユキを、自分だけは過去に置いてきてはいけないと今でも思っているのに。

「あっち、座らない?」

いつまでも二人並んで立っていても仕方ないので、ゆっくり外が眺められるように作られたテラスに設置されている二席分のソファに移動する。
それは所謂カップルシートというやつで、周りを見れば明らかに恋人同士という人達が仲良く座っている。

「カップルばかりだね」
「手とか繋がなくていいのか?」
「……人前ではやりません」
「そうか、残念だな」

冗談めかした沖矢がくすりと笑う。
そもそも手を繋ぎたがるタイプでもないのに、と眼鏡の奥の細目を見上げる。
美弥が本当に繋ぎたいと言ったら、彼は仲睦まじいカップルのような恋人繋ぎでもしてくれるのだろうか。

(……やりそう)

彼――赤井は、意外にノリが良くて負けず嫌いだから。

「……私が望んだら何でもやってくれるの?」
「可能なものならな」
「私が無理難題とか、我が儘言ったらどうするの?」
「お前はそういう性格ではないだろう?むしろ、思っていても口に出せない」
「…………」

どういう反応をするかと悪戯心で聞いてみただけなのに、さらりと的確に言い返されて美弥は押し黙る。

「だから、お前は今も抱えているだろう?」
「……え?」
「少し前から、何か思う所があるという顔をしている」
「…………」

スッと、外ではあまり見られない深い色の目が片方だけ現れて、美弥は目を瞠る。
そんな顔をしていた自覚はない。
美弥自身でも無意識なくらいなのに、彼はいつからそれに気付いていたのだろう。

「お前は言葉を呑み込みすぎる。思っている事があるなら言ってくれて構わないと、前にも言ったな」
「それは……うん」

美弥も言われた事は覚えている。
だから自分なりには以前よりも言葉にするようになったと思う。
下手な事を言って嫌われたくない、そんな気持ちがない訳ではない。
だけど今胸中で燻っている感情は、どちらかというと美弥自身の問題な気がしているから。

「俺は、言われなきゃわからない人間らしいからな」
「……そう、かな?最初に会ったあの時から、貴方は私の事わかってくれてたよ」

過去に言われた事でもあるのだろうか、彼が吐き出した言葉にはどこか自嘲がにじんでいた。
けれど美弥はそう感じた事はなかったし、むしろその察しの良さで此方の感情の先回りをして、救われた事だってあった。
死にそうな顔で夜の公園のベンチに座っていた美弥の前に立った赤井の姿を思い出してふと笑えば、沖矢は意外そうな顔をした。

「だから、ありがとう」
「…………」

美弥の事をわかって立ち回ってくれている事、こうやって気遣ってくれる事も、いつも感謝している。
だから彼はこんな遠い所まで連れ出してきてくれたのだろうから。

(それでも言わない事、シュウは気付いているかな?)

笑って返答を濁した事、彼ならばわかっているのかもしれない。
その聡さに美弥は密かに甘えて、手は繋がなくとも僅かに身を寄せて体温を静かに共有する。

この人の傍にいたい。離れたくない。
貴方と生きたいと思ってしまっている自分がいる。

彼はいつか国に帰ってしまう、ずっと日本にはいない。
本当は帰らないでほしい。
だけど、これ以上を望んだらバチが当たってしまいそうで。
ずっと一緒にいたいだなんて、言えない。
それを口に出してしまったら、今度こそ自分は決定的な何かを選択してしまうから。

だから、美弥は微笑むだけ。
彼の気遣いに応えられない罪悪感を仕舞い込みながら。
国を隔てて会えなくなってしまうその日まで。

(ああ……抱き付きたい)

彼に愛されている嬉しさが衝動になって襲いかかってくる。
だけど人がいる屋外でそれができるほど美弥は節操なしでもなくて、それをも呑み込んだ。

「お腹空いたね。何食べよっか?」
「……そうだな」

あっちにレストランあったよねなんて視線を彷徨わせていると、ふいに右手の指先に感じる温かい感触。
え、と驚いて隣を見ると、沖矢は微笑を浮かべたままさらに指を深く絡めて握ってきた。

「冷たくなっている。風邪でも引かれたら困るからな」
「え、あ、うん」
「人前でなければいいんだろう?」
「……言った、けど」

並んで座る二人の間で密かに繋がれているので確かに周りの人からはよく見えないだろう。
だけどそんな空気じゃなかったはずなのに、と咄嗟の事に対処できなくて逃げるように俯いた。
つい赤くなってしまった顔を見られたくはないけれど、きっと無駄な抵抗なんだろうなと半ば諦めの気持ちだった。
何も言えないのをいいことに、包み込んでくる指先は美弥の皮膚をするりと撫でている。

「それで?何を食べるかは決まったのか?」
「っ……」

と思ったら、意外とすぐに手は離されて沖矢がソファから立ち上がる。
恥ずかしいけれど本当は嫌ではなくて、なくなってしまった体温を名残惜しく感じて拗ねたように見上げれば、したり顔をする茶髪の青年。

(わざとだ……)

はぐらかした美弥に対する報復のつもりなのだろう。
こんな中途半端な事をされたら物足りなく感じるという事を、わかってやっているのだ。
やっぱり負けず嫌いだな、と少し悔しい気持ちを抱きながら美弥も立ち上がり、隣を歩く沖矢の左腕の袖口を小さく引っ張る。
美弥が人前でできるギリギリの接触だ。

「……これが限界ですけど」
「上出来だ」

楽しそうに笑う沖矢の声に彼本来の気配を感じて、どうしてか胸が痛んだ。


――今のままで充分に私は幸せだ、と。


そう言い聞かせるように思っていたのに。
もう既に揺らいでしまいそうになっている自分がいた。











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