08-2
翌日、美弥は実家の外を歩いていた。
ユキも通っていた中学校の登下校の道や、帰り道でこっそり買い食いをした店や、長々と座って喋っていた公園。
目の当たりにすれば、あの頃の自分達の姿が瞬時に重なる。
抱き始めていた淡い気持ちまで蘇るようで胸がキュッと詰まる。
だけど風が吹いて瞬きをすればそこには誰もいない光景が広がっていて、美弥は眉尻を下げた。
近所にある馴染みの花屋で控えめだけど綺麗な花を包んでもらい、慣れ親しんだ地区のアスファルトを踏みしめ、
住宅地からは少し離れた脇道から伸びる緩やかな山道を、じわりと汗ばみながらゆっくり歩いた。
賑やかな中心街とは違う、生い茂る木々の緑に守られているような静かな場所。
その奥に、ユキが眠っている墓がある。
「…………」
石碑に彫られた名前を見つめて、ぼうっと立ち尽くす。
初めて目の当たりにした時は、こんな所で眠っているなんて信じられないと思った。
ずっと、認めたくなんてなかった。
これはユキがいない現実を一番に突き付けてくるものだから。
綺麗にされている墓石を美弥も一通り掃除をして、花を供え、蝋燭と線香に火を付けて手を合わせる。
「っ……」
本当は一緒に生きて、一緒に老いていきたかった。
それができない現実が苦しくて仕方ない。
(どうしたって、ユキは忘れられない)
今まで生きてきた美弥の全てが、ユキを覚えている。
ユキを忘れるという事は、美弥の人生のほとんどを失くす事になる。
それはできないんだな、と半ば諦めのような気持ちだった。
線香の匂いが漂うその場から足が動かない。
こんな所にずっといたってユキが出てくる訳でもないのに、意味もなく墓石を見下ろすばかり。
美弥だけが、時間から取り残されたような感覚だった。
緩やかな風で汗が冷やされ、肌寒さを覚えても立ち去る気力がない。
(っ……?)
ポケットに入れているスマホが何回か震えたのを感じて、美弥はおもむろにそれを取り出した。
メッセージを確認すると送信者はコナンで、『みんなでキャンプに行くから美弥さんも来ない?』という誘いの連絡だった。
(コナン君、みんな……)
その次に送られてきたのは画像で、元太と光彦と歩美が画面いっぱいに写っている。
きっと話が盛り上がった勢いで写真まで撮って、送れと言われてコナンが渋々送信してきたのかもしれない。
「ふふ……っ」
子供達の無邪気に笑っている顔。
さっきまで呆然としていたのに自然と笑みが漏れて、だけど泣きたいような気持ちにもなった。
一回り以上も歳が離れているのに、みんな当たり前のように美弥を仲間に入れてくれる。
そして一緒に騒いで、はしゃいで、素直に喜んだり、怒ったり。
普通に生活していたら交わる事もなかっただろう子達と出会えて、そして慕ってくれる。
家と会社を往復するだけだった美弥に、いつも真新しいものを見せてくれる。
ただ楽しいだけの時間でない事もたまにはあるけど、彼らの笑っている顔を見るだけで救われたような気がするのだ。
だから何かしてあげたいと、いつも思う。
そしてスマホの画面を少し切り替えれば目に入る、履歴に残った沖矢昴の名前。
あれから彼からの連絡はない。
考えさせて欲しいと言ったのは自分で、彼は美弥の返答を待っているのだと思う。
あの一人で住むには広すぎる屋敷で、どこか寂しそうな眼差しをしていたりするのだろうか。
(シュウ……)
思えば、美弥を取り巻く環境が随分変わった気がするのは赤井と出会ってからだ。
彼を一度失ったと思った後ぐらいから子供達と知り合って、色んな職種の人達とも関わりを持つようになって、自分の小さかった世界が広がったようで。
事件に巻き込まれた事もあったけど危険を冒して助けに来てくれたし、悪いようには捉えていない。
出会ったのは、良くも悪くもみんな赤井に関係した人達ばかりだったから、きっと全てのきっかけは彼だったのだろう。
彼は、優しかった。
互いに干渉しない事が暗黙の了解だったかもしれないけど、それでも体だけの関係だった時からも彼は何だかんだ律儀だった。
そして、沖矢昴として変装しながら美弥の事も気にかけてくれていた。
事件現場を目撃してしまってフラッシュバックを起こした時だって、以前にしていたように美弥の体を寄りかからせて体温を分けてくれていた。
美弥自身もはっきり自覚していた訳じゃないけれど、そうすると安心するという事に彼は気付いていたのだ。
そう、彼は何でも知っている。
FBIだと教えてもらった今ではその理由も納得できるし、知ってくれている人がいる事には嬉しさを覚えた。
外では危険な目に遭ったりしているようなのに、美弥の傍では彼は穏やかで静かで、だけど時には熱いくらいの欲をぶつけられる。
美弥の心の奥には踏み込んでこないのに、いつも気付かないうちに支えられていた。
ユキを想いながら抱かれて、その人の目線からは逃げている事を見ていたはずなのにだ。
ただ委ねて甘えている自分を彼は受け入れて、それでも大切にしてくれていたのだろう。
彼に出会って、美弥はいつの間にか笑って生きている。
その"シュウ"が、美弥を待っている。
自分を、欲してくれている。
「…………っ」
湧き上がった感情、それは。
――シュウに会いたい。
知らず目尻に溜まっていた涙を拭って、美弥はスマホから顔を上げる。
(ごめんね、ユキ……)
刻まれた名前を一度見つめて、後ろ髪を引かれながらも踵を返すとゆっくりと一歩を踏み出した。
ざくざくと音を立てて、墓石を背に歩き出す。
ユキの事は忘れていない、忘れるつもりなんてこの先も絶対にない。
だけど此処にいては美弥の時間は本当に止まってしまう。
(一緒に止まれない自分を怒ってくれてもいいよ、ユキ)
だけど美弥が新しく出会った人達は、屈託なく笑ってくれる。
美弥の存在を今でも待ってくれていて、そして会えばきっと喜んでくれる。
自分が生きたい世界は、あちらだと思った。
美弥が生きる事で喜んでくれる人がいるのなら、役に立ちたいと思った。
山道を下りながら思い出した園子の言葉が美弥に突き刺さる。
『女はたった一人の男しか選べないの!』
もしユキが生きていたなら、自分はユキか赤井のどちらを選んだのだろう。
考えてみて、だけどそれは愚問だとすぐに取り消した。
ユキが生きていたのならそもそも"シュウ"には出会わなかった。
たとえどこかですれ違う事があったのだとしても、美弥にはユキしか見えていなかった。
だけど現実はこれで、そして"シュウ"に出会ってしまった。
美弥もまた、今を生きている赤井を知ってしまった。
『今生きているお前を大事にしたいとも思っている』
彼の言葉が嬉しかった。
彼はまだ生きているのだ。
一歩間違えれば殺されてしまうような脅威と対峙しながら、死を偽装して、時には怪我をして、それでも敵を追いつめようと潜んでいる。
そんな赤井が、美弥を手放さないと言ったのだ。
ならば美弥だって、必死で生きている彼の役に立ちたいと思った。
人知れず危険な場所に身を置いている彼の助けになるのなら、なんだってしたい。
美弥を必要としてくれるなら、それに応えたい。
何ができるかわからない、だけど今度は自分が彼を支えたいと確かに感じた。
(ここから先は、もう……逃げじゃない)
現実から本当に逃避したいだけなら誰だっていいはずで。
いつ、またいなくなってしまうかわからない人でなく、もっと安全な人だっていると思う。
だけど誰でもいい訳じゃないのは自分が一番よくわかっている。
口数は多くないけれど、必要な言葉はちゃんと言ってくれる。
何を考えているかわからない時もあるけど、だけど大切にしてくれている事だけはわかる。
射抜くような眼差しは怖さもあるのに、どうしてか胸がギュッと詰まるような感覚になる。
優しいというより見守られているようで、だけど彼の確かな強さに安心感も覚えてしまったから。
――もう自分は、シュウを求めていた。
*****
東京でしばらくやっていく事を両親に告げれば二人は悲しそうな顔をした。
「本当に大丈夫なの?無理しなくてもいいのよ?」
「東京で一人で住むなんて危ないじゃないか。戻って来てもいいんだぞ?」
引き止めようとするのも無理はない。
美弥が全然連絡しなかったから余計に心配させてしまっていたのだろう。
だから、安心してもらえるように微笑んだ。
「……友達とか、いるから。独りじゃないから、多分大丈夫」
そう答えれば、二人はまだ何か言いたそうにしながらも渋々口を噤んだ。
美弥の決めた事を尊重してくれる優しい両親に、心で感謝した。
「何かあったらちゃんと連絡しなさいね?あなたそういう事全然言わないから」
「……うん、ごめん」
これからはもっと頻繁に帰って来よう。
ずっと心配かけていただろうから顔を見せる事で安心させてあげたいと思った。
――ユキへの罪悪感は消えない。だけど歩こうと決めたから。
墓参りから帰った後に、誘ってくれた子供達には断りのメッセージを送っておいた。
東京から離れているので、参加したくても流石にできないので今回は仕方ない。
今度またお菓子でも作っていってあげよう、きっと彼らは喜んでくれる。
輪投げの露店で取ってもらったアクセサリーをもう一度同じ小箱に納め、机の奥の棚にしまう。
アルバムも閉じて、本棚の一番下の段に戻した。
持っていく必要はない、全部覚えているから。
だけど学生時代を過ごしたこの部屋を過去として捨て去るつもりもない。
一生背負って生きていくものなんだろう。
気持ちは固まったけれどどこか寂しくもあって、美弥は諦めたような笑いを浮かべながら実家での最後の夜を思い出と共に眠りについた。
翌日、両親に笑って手を振り、電車を乗り継いで東京を目指す。
通り過ぎていく景色を横目に見下ろすのは、スマホの画面。
赤井に連絡を入れようかどうしようか、迷っている。
ユキに会ってきた後にすぐ別の男に会いに行くのもどうかと思うのだ。
(でも、先延ばしにしても一緒か……)
時間を置いたところで、別の男の所に行く事実は変わらない。
それに、待っているだろう彼をいつまでも待たせるのも悪いような気がして。
美弥は小さく深呼吸をしてから、意を決してメッセージを入力する。
話がしたい、そういう内容を送れば、画面を閉じる間もなくすぐに返事が来た。
わかった、と一言。簡潔な言葉が本当に彼らしい。
今日は時間があるらしいので到着する大体の時間を伝え、当初予定していた目的地を変更して米花駅で降りた。
大きいバッグを持っていたけど邪魔になるほどではないから、そのままでバスに乗った。
こうやって通うのも慣れてしまった。
まるで大学時代にユキのアパートに通い詰めていた時みたいだなと思って、苦笑する。
だけど今日はどうしてかいつもより緊張しているようで、無意識に呼吸が深い。
よく眺めていた住宅地の光景もあまり頭に入ってこないまま、バスを降りた。
阿笠家の隣にある、工藤家の立派な屋敷。
美弥も聞いた事がある高校生探偵の工藤新一の生家らしいが、彼自身と対面した事はない。
家主や家族に一度も会った事がないのに家には通い慣れてしまっているなんてどうも奇妙な感覚だ。
一度立ち止まり、小さく息を吐いてインターホンを押す。
やがて向こう側から「玄関まで入って来ていい」と柔らかい声が聞こえた。
いつもなら外まで来て出迎えてくれるが、今日は違うんだなと思いながら門を小さく開け、敷地に入る。
玄関の前まで行けば、待っていたかのように扉が小さく開いた。
「っ」
沖矢の姿だと思っていた彼は、赤井のままの姿でそこにいた。
(シュウ……)
さっきは沖矢の声だったのにと思っていると、首元にチョーカーを見つけた。
ドアも大きく開けず、陰に隠れるように立っているので、そうか外から見えないようにしているんだと納得した。
だからインターホンの声だけ変えていたのだろう。
意図を察してさっと中に入れば、彼は素早くドアを閉めた。
リビングで待っていろ、とだけ言って彼はキッチンの方へ歩いていった。
何だか、彼本来の背中を見るのは久しぶりだなと思った。
服装が違うだけで体格は沖矢の時も同じはずなのに、どうしてか雰囲気が違う気がする。
いつまでも眺めていられる、不思議な背中だった。
お邪魔します、と小さく呟いてリビングのドアを開け、ソファのいつもの場所にちょこんと座っていると、戻ってきた彼がテーブルに紅茶を置いた。
「……ありがとう」
赤井は自分の分を持ち、美弥の隣ではなく正面のソファに腰を下ろした。
その普段と違う動作につられて美弥の緊張も増していく。
気持ちを落ち着かせようとカップに手を伸ばし、ゆっくりと口に含む。
「美味しい……」
彼が淹れてくれる紅茶はほどよい熱さで、柔らかい香りに緊張が和らいでいくようだった。
変わらないそれに思わず笑みが零れる。
チラリと正面を覗き見るが、彼の表情はあまり読み取れない。
だけど口数はいつもよりもっと少ないし、煙草だって吸わない。
(そっか、待ってるのか……)
美弥が何を話すのか、急かす事なく待っているのだ。
液体をこくりと嚥下し、カップを静かにソーサーに置く。
「シュウ……あのね」
どう切り出したらいいのか、言葉に詰まる。
だけど彼はじっと美弥を見つめるばかり。
ふと顔を上げて、赤井の深い色の目と視線が合う。
いつからだろう、その複雑で美しい色合いを見ると胸に何かが込み上がるようになったのは。
「私ね……弱くて、卑怯な女なの」
「…………」
本当は、彼に優しくしてもらえるような人間じゃない。
「私は……ユキ以外の人を選べない」
「……そうだな」
「けど、シュウの事も大事なの……シュウがいないと駄目なの……できるならシュウを支えたい」
言っていて、本当に酷い言葉だと思った。
待たせていて、結局こんな曖昧な返答しかできないなんて。
「最低なのはわかってる……ユキにもシュウにも中途半端で、酷い事して、裏切ってる」
ユキを想ってるのに、シュウを大切にしたいと思ってる、酷い女。
「シュウは、そんな私でもいいの?」
赤井の静かで深い双眸を見つめ返す。
こんなの見限られたっておかしくない。
だけどそうされてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。
自分が言葉を発したのに怖くて、微かに震えている指を隠すように握り締める。
表情を崩さない赤井の唇がゆっくりと開いて、形を作る。
「お前が俺を受け入れるなら、それでいい」
簡潔で、あっさりとした返答に驚いたのは美弥の方だった。
「……いいの?」
「それについては50:50だろう?俺も似たような立場だからな」
「…………」
「どちらかを選ばなくていい、美弥。答えを出す必要などない。お前がその男を裏切れない事も知っている」
赤井の言葉はどこまでも優しいもので。
美弥の葛藤など百も承知で、それでも真っ直ぐに想ってくれている。
嬉しいのに戸惑いさえもしている。
自分は、その優しさに付け入ってしまうかもしれないから。
「……そんなに甘やかしていいの?私、シュウに逃げてるだけかもしれないのに」
「それでも構わん。だが、他の男に行かれるのは困る」
「そんな事は、しないよ」
それには強く否定した。
もう、彼じゃないと嫌だと思ってしまっているのだから。
「だから形式にはこだわらない。もちろん、お前が望むなら形で示す事もできる」
それはつまり、どんな名前の関係になってもいいという事だろうか。
彼はどうしてそこまで言ってくれるのだろう。
美弥にはまだそこまで踏み出す勇気はない。
だけどそれすらも、彼なら受け入れてしまうのかもしれない。
「シュウの傍にいられるなら……何でもいい」
今は、それが美弥の素直で精一杯な気持ち。
だけどこれからは目を逸らさず、少しでも彼の気持ちに応えたいと思っている。
「隣……座っていい?」
微かに笑って、初めて"シュウ"に近付いた時と同じ言葉を紡げば。
赤井もまた、口角を上げた。
「……ああ、構わん」
立ち上がってテーブルを回り込み、赤井が座っているソファにおずおずと歩み寄る。
あの時と違うのは、彼が両腕を広げて待っててくれている事。
吸い込まれるように首に腕を回せば、大きな掌が痛いくらいに美弥を抱き締める。
そのまま、すとんと膝の上に体重を預けて深く呼吸をする。
離れて座っている距離がもどかしかった。
彼に触れられる位置が、一番落ち着く場所だと知ってしまったから。
「シュウ……あったかい」
その体温と僅かに感じる煙草の匂いが嬉しくて、喉が熱くなるのを感じながら美弥は涙声で呟いた。
「私、シュウの傍にいたい……っ」
「ああ」
低くて、穏やかな返事に自然と笑みが漏れた。
しばらく好きにさせていた赤井がふいに身じろいで、美弥の髪を耳にかけ、そこに唇を寄せる。
「愛してる、美弥」
「っ…………!」
囁かれた音に、堪えていた涙がついに溢れた。
――初めて言われた言葉に、心が震えた。
Love is more afraid of change than destruction.
愛が恐れているのは、愛の破滅よりも、むしろ、愛の変化である。
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またニーチェより。
次で最終章です。