白銀を帯びた瞳は、翳る事なく輝き続ける。

今までも、これからも――







ここより永遠に








雁州国。

在位百年を軽く越える今の延王・尚隆。
稀代の王と謳われる人物の傍には、常にある女性が存在していた。

彼女の名は鳳綺
この女性も雁の躍進を大きく助けていく事になるが、それはまた別のお話。


この王と、王の寵姫には一つだけ問題点があった。

それは―――放浪癖がある事である。









「これで……終わりかな」

いつもより早めの進行で仕事を終えると、鳳綺は息を吐いた。
そして、よしと立ち上がると急ぎ足で部屋を出る。

門卒に挨拶をしながら禁門から戻り、こっそりと玄英宮を歩く様子はとても燕寝に住んでいる人間には見えない。
というか、王宮でこそこそしている者がいたらただの不審者なのだが、
この雁では珍しくもない光景になってしまっている。

そして後宮の自室に戻ると、ちょうど苫珠がいた。

「あれ、もう帰ってきたの?」
「うん。早めに終わらせたから少し出てくるね」
「これから?」

鳳綺が官服を脱ぎ始めると、苫珠は文句を言いながらも市井の着物を着させてくれた。

「ありがとう、苫珠」
「はいはい、早く帰ってきなさいよ」
「もし尚隆が来たら……」
「もちろん内緒にしとくわよ。追いかけでもされたら困るし」
「……うん、ごめんね」

厳しくも優しい友人に送り出され、鳳綺は再びこっそりと王宮を移動する。

「后妃」
「……!」

だけど今回は、見つかってはいけない人に見つかってしまった。
ビクリと肩を跳ね上げ、鳳綺は恐る恐る背後を振り返る。

「朱衡、様……」

作り笑いを浮かべてみるが、この人の冷徹な笑顔には勝てない。

「どちらへ行かれるおつもりです?」
「あ、はは……ちょっとそこまで……」
「今は治朝でお仕事をされている時間ではございませんでした?」
「その……現時点で必要な分は終えましたし、仕事の一環として、は……駄目ですか?」
「さようですか。本来なら後宮の主としての執務もあるにはあるんですがね」
「すみません……」

鳳綺は苦笑した。
それも大事だとは思うが、鳳綺としては遂人の仕事が好きなのだ。
鳳綺にとっての外出はただの遊びではない。
山を降りて、市井の暮らしを直に感じる事が大切だと思っている。
そちらに比重を置いているので、必然的に後宮仕事は苫珠に任せてしまっている部分がある。
朱衡もそれはわかっているのだが、時々こうやって念押しのように言われる。

鳳綺としてはようやく久しぶりに時間が作れたのだ。
できれば見逃して欲しいなとじっと相手を見つめれば、朱衡は溜息をついた。

「……仕方ありませんね」
「あ、ありがとうございます!書簡はまとめて置いてありますので帷湍様にそうお伝え下さい」
「かしこまりました」
「あの……尚隆は?」

何をしているのだろうかと訊ねてみれば、彼は恐ろしいほどに冷たく微笑んだ。

「先日分から溜め込まれた執務が山ほどございますので。抜け出された分が山ほどと」
「うっ……すみません、私がきちんと止められなかったばかりに……」

強調して言われた"抜け出し"に加担するような形になってしまった前回の事を思い出し、罪悪感が募る。
申し訳なくて目を伏せるが、朱衡は鳳綺には優しい表情を見せた。

「いいのですよ、后妃は。溜め込んでおく主上が悪いんですから」
「はい……」
「では、早めにお戻り下さい」
「あ……はい!いってきます!」

朱衡に許しを貰い、頭を下げると鳳綺は軽やかに駆けた。

琉綏、出掛けよう」

厩で手綱を外すと、鳳綺の騎獣・琉綏は待ってましたとばかりに勢いよく玄英宮を飛び出した。












朱衡が何食わぬ顔で内殿に戻ると、重苦しい沈黙が部屋中に漂っている。
監視を任せていた官吏を下がらせると、この空気が嫌だったのか彼は逃げるように退出していった。

「…………」

どれだけ処理しても減らない報告書の山を一瞥し、尚隆はうんざりした顔で頬杖を付く。

「手が止まっていますよ、主上」

朱衡の冷たい物言いに、さらに眉間に皺が寄る。

鳳綺は?」
「治朝に行かれておりますが」
「呼んでこい」
「勤務中でございます」
「命令だ」

朱衡の即答にも尚隆はめげない。
そろそろ限界だとはわかっているが朱衡も一歩も引く気はなかった。

「そもそも治朝の者を此処に呼び出すような事をされては騒ぎになります。
戻られましたら、来ていただくように手配いたします」
「…………」

なおも崩れない壁に尚隆は舌打ちをし、傍にあった白紙に何かを書き始める。

「これを台輔の所に届けてこい」

しかし出された書簡を朱衡は受け取らない。

「では使いを出します」
「お前が届けて来い」
「他にも適任はおります」
「…………」

尚隆は胡乱な目付きで涼しい顔の男を睨む。

「何か隠してるだろう?」
「いいえ、何も」
「王の命に背くのか?」
「執務の途中で抜け出す王の命など、真面目に聞いていたら国が傾きますので」
「はっ、言ってくれるな、お前も」
「お褒めにあずかり光栄です」

ふはは、と邪悪に笑う王に対して、氷のような完璧な笑みを浮かべる朱衡。
殺気すら滲む空気は、他の人間が見たら恐怖に震えるだろう。

だが、突然態度を変えたのは臣下の方だった。

「まぁいいでしょう。台輔にその書簡を届ければよろしいのですね?」
「……そうだ」
「では、いってまいります」
「…………」

意外にあっさりと出て行った事にやはり違和感を覚えたが、
尚隆はこの好機を逃すまいと、報告書の山をそのままに窓から飛び出した。

いつもの抜け道を使い、まずは後宮の奥の屋敷に向かった。
そして窺いもせず乱暴に扉を開け放つ。

「……どうしました、主上?」

普通の女官なら飛び上がって驚く所だろうが、後宮唯一の妃付きの女性は顔色も変えずに立っていた。

「苫珠、鳳綺はいるか?」

少し切迫した表情の尚隆。

「え、いませんけど。今は治朝だと思いますが」
「本当だな?」
「嘘を言ってどうなるんですか。まぁ、私も実際見てないんで本当に仕事してるかは知りませんけど」
「…………」

王にも臆さない鉄壁の女御に、尚隆は「わかった」と言いながら部屋を出て行った。

「……はぁ、主上も飽きないわね」

苫珠は呆れたように息を吐く。
そして此処にはいない苫珠の主に、内心で毒づいた。


尚隆は後宮に顔を出した後、すぐさま王宮の厩に急いだ。
深刻な表情の王が突然現れたせいで厩付きの官は動揺した。

「しゅっ、主上……!?」
琉綏はいるか?」
「えっ……后妃の騎獣ですか?えっと……あ、主上!」

尚隆は返事も待たずに奥に入って確認すると、悪態をついた。

「やはりいない……やられたな」

毛並みの綺麗な吉量の姿はなかった。
それはすなわち、主である鳳綺を乗せて出て行ってしまっているという事だ。

ならば自分も、と尚隆は変装もしないまま『たま』を目指して突き進む。

「どちらへ行かれるおつもりですか、主上?」

だが背後には朱衡の他、帷湍、成笙とその他大勢が揃っていた。
急いで来た訳ではなさそうな様子から、恐らく此処で待ち構えていたのだろう。

「朱衡……」
「お散歩は終わりましたか?」
「……俺は踊らされていたのか」
「そういう事です」
「そう何度も逃がしたりはしないぞ!」

清々しい笑顔の朱衡、そして誇らしげな帷湍に尚隆は舌打ちをした。

「お前達、その性根をどうして鳳綺に向けない?」
「后妃はあなたとは違いますから」
「…………」

はっきりと言われ、尚隆は内心でがくりと肩を落とす。

(俺の妻なんだが……)

尚隆と鳳綺で、この扱いの差だ。
最初、鳳綺が後宮に入る事を反対する者もいたが、結局は皆彼女を気に入ってしまった。
男だらけのむさ苦しい王宮の紅一点に、皆どこか甘いのではないか。

そんな不満のような嫉妬のような気持ちでいる尚隆を余所に、
有能な臣下達はがっちりと守りを固め、王を連行する。

「さあ、執務の続きをどうぞ、主上」
「きっちり仕事してもらうからな!」
「……お前達、覚えてろよ」

尚隆の小さな抵抗虚しく、逃げ出した執務室に早々に引き戻されてしまうのだった。













「た、ただいまぁ……」

侵入者のようにこそこそと後宮に入る人影。
誰もいない、なんて事はないとわかっているが気持ちの問題だ。

そして鳳綺の予想通りに、目の前には親友が仁王立ちしていた。

「こら鳳綺!」
「わっ」

やっぱり、と思う暇もなく自分の女御が牙を剥く。

「何処まで行ってたのよ!」
「え、えっと……容昌まで……」
「何でそんな所まで行ってるのよ!遅くなるなって言ったでしょ!」
「ご、ごめん……」
「こっちだってあんたの不在を取り繕うの大変なんだからね!
ほら、さっさと着替えな!この後宮の主だって少しは自覚しなさいよ!」
「……はい」

引き摺られるようにして奥に連れていかれ、半ば無理矢理服を脱がされる。
女御らしくてきぱきと服を着替えさせる技が凄いな、なんて関係ない事を考えていると。

「昼間に主上が来たわよ」
「えっ!?な、何か言ってた……?」
「別に、あんたがいるか聞かれただけよ」
「……抜け出した事、気付かれたかな?」

自分だけ外出した罪悪感を覚えていると、苫珠はくすりと笑った。

「さあね……それは本人に聞いてみたら?」
「え?」

どういう事、と苫珠を振り返ると、
苫珠のさらに奥に、壁に寄りかかって腕を組んでいる尚隆がいた。

「あ……し、尚隆……」

いつからいたのか、いや、恐らくずっといたのだろう。
小さく口角を上げた表情で目が合ってしまったが、あれは良くない。
あれは怒っている時の笑顔だ。

「じゃ、頑張ってね鳳綺
「え!?行っちゃうの!?」
「自業自得」
「う……」

役目を終えたからと苫珠はさっさと部屋を出て行ってしまった。
助けてくれる人がいなくなってしまい恐る恐る背後を振り返ると、延王がゆっくりと此方に歩いてくる。

「よう、鳳綺。今日は治朝だと聞いていたが、遅かったではないか」
「あ、はは……」

引き付いた笑顔でいると、あっという間に尚隆に壁際に追い込まれる。

「俺が篭りきりでいる時に一人で出て行って楽しかったか?」
「う……私だって尚隆と一緒に行きたいけど、仕事が溜まってたみたいだし」
「それで俺に何も言わず?」
「言ったら付いてくるじゃない。さすがに朱衡様に怒られるよ」
「まぁ、そうだろうな」

頷いているのに、ちっとも納得している顔ではない。

「……ごめんね?」
「悪かったと思っているのか?」
「思ってるよ!」
「なら態度で示してもらおうか」
「態度って……うわっ!」

腕を引かれ、部屋の奥に連れて行かれると肩を押され、鳳綺の天地は逆転した。
背中には寝台の柔らかい感触、目の前には楽しそうな尚隆の顔がある。

「ほら」
「ほら、って……どうすれば?」
「わかるだろう?」

尚隆は何かを待つように顔を寄せて、じっとしている。
何が言いたいのかようやく理解できて鳳綺の顔が赤くなる。

「今日は酷い目にあった」
「酷い目?」
「朱衡には嵌められるわ、苫珠にも騙され、あげくに引きずり回されて執務室送り」
「…………」

溜息をついた尚隆の眉には皺が寄っている。
楽しそうな朱衡に憎々しい目を向ける尚隆の姿がありありと想像できる。
後ろめたさもあったが、何だか少し可哀想にも思えてしまい、
鳳綺は導かれるように尚隆の唇に自身のを触れさせた。

いつの間にか決まってしまった、謝りを意味する行為。
恥ずかしながらもそれをすれば、尚隆は口角を上げた。

「足りない」
「っ……!」

覆い被さった尚隆に捕食されるように唇を塞がれ、鳳綺の息が上がる。
口内に忍び込んだ舌は優しいようで激しく、そのもどかしさに鳳綺の体の力が自然と抜けていく。

「ん……ぅ」

少し乱暴な扱いに翻弄されるのに、それが心地いいとも感じている。
顔にかかる、尚隆の漆黒の髪がくすぐったい。

「……いい顔だな」

尚隆は唇を離し、脱力した鳳綺を見下ろして満足そうに笑う。

何度もこんなやり取りを交わし、少しは慣れただろうがそれでもまだ恥じらいを見せる。
白銀の瞳が潤み、切なそうに此方を見つめてくる。
関弓で会ったあの時から変わらない表情に、尚隆は言いようのない感情を覚えた。

その漆黒の瞳が細められる様をまじまじと見てしまい、鳳綺は慌てた。
この空気は非常に良くない。

「ま、待って……私帰ってきたばかりで……」
「俺はずっと待っていたんだが」
「それに体だってまだ洗ってなくて……っ」
「後でいいだろう。何なら一緒に入っても構わんが」
「……っ」

尚隆は言葉にしたら確実に実行する人だ。
そんな恥ずかしい事できないと鳳綺は顔を青くする。

「せ、苫珠……いないの……!?」
「助けを呼んだって来ない。あいつは有能な女御だからな」
「そ、そんな……!」

まるで悪者のような言葉だ。
助けを求めながらも本気で逃げようとしていない鳳綺の事をわかりきっているのだろう。
妙に色っぽい尚隆を見返し、鳳綺はついに諦めた。

(そんな目で見られたら、逃げられない)

「……ごめんね、独りにさせて」

鳳綺がそう呟けば、尚隆は小さく笑った。

「ここからの時間は俺が貰うから、それでいい」

尚隆からの優しい唇を、鳳綺は静かに受け入れた。



















ちなみに。

「な……なんだよこれは!!」

怒りに震わせながら届けられた書簡を握り締めるのは、この国の麒麟。
そこには達筆な字で一言、『馬鹿』とだけ書かれていた。

意味のわからないただの罵りに、六太は叫んだ。


雁で最も尊い場所、玄英宮は今日も騒がしい。











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第二部という事で、まずは尚隆と主人公のドタバタです。
ギャグになってしまってすいません。

(2020.5.28修正)